『海難国家』トリスタン・ダ・クーニャ
 

民主国家, 福祉国家, 警察国家, 傀儡国家。。 国家にもいろいろあるけれど『海難国家』というのはどの辞書にもでしょう。 そりゃそうです。 私の勝手な造語ですから。 しかしトリスタン・ダ・クーニャの歴史, 文化, 果ては政治, 経済をつらつら考えてみると, この南大西洋の孤島は海難国家と呼ぶにふさわしいところであることに気付きます。


歴史的側面から言うと, まずこの島の住民に船の遭難で救助されそのまま島に残った者が何人もいることがあげられます。 多くの者はそのうち島を出ていきましたが, ガエタノ・ラバレッロとアンドレア・レペットの2人のイタリア人は島で家庭を築き, 現在ある7つの家系のうちの2つ, ラバレッロ家とレペット家の先祖となりました。 


そして船の遭難によって島の存亡の危機を迎えることがありました。  1885年11月28日, 島民15人の乗った漁船が遭難, 全員帰らぬ人となりました。 これによって島は男の働き手を一気に失い「未亡人の島」(Island of Widows)とあだ名される状態になってしまいます。  


遭難は悲劇を生むだけではありません。 島の生活を豊かにすることもあります。 島に漂着した難破船の残骸や備品が島民の家の建築・補修用の資材になったり, 家財道具になったりしたのです。 このことに関連してトリスタン・ダ・クーニャには語り継がれている有名なエピソードがあります。 島の教会に赴任したイギリス人の宣教師が, 教会の礼拝で住民が「よい船が遭難しますように」と祈ったのを聞いて嗜めたというのです。


またトリスタン・ダ・クーニャの住民が少なからぬ海難救助に貢献したので1876年,イギリス政府はトリスタン・ダ・クーニャを公式に大英帝国の一部と宣言し年に1回物資が運ばれるようになりました。 これも海難事故が島民の生活を潤した一面と言えるでしょう。





トリスタン・ダ・クーニャは船の遭難をテーマにした切手を発行したことがあります。 それを基に海難国家トリスタン・ダ・クーニャの歴史を見てみることにしましょう。
(切手をクリックすると拡大します)
船の遭難を記念切手にするというのは一風変わって見えますが, 実際はそれほど珍しいわけでもなさそうです。 shipwreck stamps で検索するとイギリス海峡にある英領オルダニ島や, アパルトヘイト下の南アフリカで作られたホームランドの一つトランスカイの切手を見ることができます。 これらの方はトリスタン・ダ・クーニャの遭難切手よりもリアリティがあります。




船の遭難シリーズ1の切手シート。  トリスタン・ダ・クーニャ島付近で遭難した船の名前とその場所, 島の民謡の楽譜 The Ship that Never Returned 『帰ら来ぬ船』の一部が描かれています。  この歌はトリスタンの民謡のページで聞くことができます。
 (ここをクリック


この切手のによると1816年トリスタン・ダ・クーニャが正式にイギリス領になってから1953年までに以下の海難事故が起きたことがわかります。
1817 H.M.S. Julia ★
1820 Sarah
1825 Nassau
1836 Emily
1857 Joseph Somes
1864 Lark
1869 Sir Ralph Abercrombie
1869 Bogota
1871 Beacon Light
1872 Olympia
1873 Cesarena P.
1878 Mabel Clark
1879 Henry A. Paull
1881 Edward Vittery
1892 Italia ★
1893 Glenhuntley
1893 Allanshaw
1953 Coimbra
これらのうち★を付けた 1817年の H.M.S. Julia号の遭難については昔発行していたメルマガで触れました。 (その記事はここをクリック





船の遭難シリーズ2の切手シート。 1892年 Barque Italia 号で遭難し島の住民になったイタリア人 ガエタノ・ラバレッロ(Gaetano Ravarello) と アンドレア・レペット(Andrea Repetto) の肖像画と聖歌 Eternal Father Strong to Save の楽譜の一部。 これはアメリカ海軍の聖歌でもあるようです。 Gaetano Ravarello と Andrea Repettoについては別ページをご覧ください。








船の遭難シリーズ3の切手シート。  イナクセッシブル(接近不可)島付近での遭難船の記録。 と聖歌 Jesus Lover of My Soul の楽譜の一部。 この聖歌は兵士や船乗りの鎮魂歌として使われているようです。



1821 S.V. Blenden Hall ★
1883 Barque Shakespeare
1897 Barque Helen S. Lea 


上に記載されている海難事故では 1821年の Blenden Hall (ブレンデン・ホール号)が最も有名です。 これはイギリス本国と東インド会社の国々の間を高速で結ぶために造られたイースト・インディアマン(East Indiaman) と呼ばれる帆船で, アレキサンダー・グレイグというイングランド南部に住む男が船主であり船長でした。 


1821年5月6日乗客乗組員合わせて85名でボンベイへ向けて出航, 7月23日にイナクセッシブル島近くで座礁しこの島に漂着(この際乗組員2名死亡)。 11月9日に遭難者の有志がいかだで約30キロ離れたトリスタン・ダ・クーニャに辿り着き救援を求めるまで, ゾウアザラシを殺して生で食べるなどしてこの無人島で生き延びました。


その様子は船長の17歳の息子アレキサンダー・グレイグ・ジュニアが, 漂着したタイム紙に「ペンギンの血で作ったインク」を使って記した記録から窺い知ることができます。 イギリスの海洋小説家J.G.ロックハート(J.G.Lockhart 注) はこれを題材にし Blenden Hall - the True Story of a Shipwreck, a Casting Away & Life on a Desert Island という小説を書き1930年に発表しています。  弊サイトでもいずれ別の機会にこの遭難事故を取り上げようと思います。
(注)『サー・ウォールタ・スコット伝(Life of Sir Walter Scott)』を書いた作家 J.G. Lockhart とは別人です。





これは1885年11月28日, 島民15名の乗ったボートが遭難したことをテーマにした記念切手。


当日, 10キロ沖合いにイギリスのブリストルからオーストラリアのシドニーに航行中のイギリス船ウェスト・ライディング号停泊していました。 島民はその船から物資をもらい受けに行こうと荒れた海の中, 船出しました。 ところが途中でマストが折れオールを漕ぐことになります。 一方, ウェスト・ライディング号は島民が近づくのを見ると船旗を下げて出航する合い図を出しました。 これを見たボートの漕ぎ手達は方向転換をして島に帰ろうとしましたが, 強い南西の風と北東の潮の流れに乗りオールだけでは戻れません。 そしてついにウェスト・ライディング号の近くで沈没してしまいました。 ウェスト・ライディング号の方はどうしたかと言うと, 救助せずそのまま去ってしまったのです。 (後にこの件で海難裁判が行なわれます。)


この遭難で島は成人男性4人以外の88人が女・子供という人口構成になりました。 成人男性の中で心身ともに健康であったのは1人だけであとは老人2人とこの事故で気が狂った45歳の男性1人という悲惨な状況になりました。


上の切手にはこの遭難で死亡した島民の名前と, 遭難の状況を示す絵, そして遭難した場所が描かれています。 左の切手には 15 men lost without trace. They have no island grave.  「15人の男たちは跡形もなく消えた。 陸(おか)の墓はない。」と書かれています。


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