望むと望まざるとに関わらず, 大西洋の孤島トリスタン・ダ・クーニャに滞在した者がいます。 その多くはいずれ島を出て行きましたが, この島に定住し現在のトリスタン・ダ・クーニャの島民の7つの姓の祖となった者もいます。 このページではその7家族の先祖である7人を簡単に紹介したいと思います。 図はトリスタン・ダ・クーニャが発行した「先祖を記念する」切手です。 写真はもとより肖像画も存在しないので, 先祖が島に渡って来たときの船を元にした図案になっています。 先祖たちが島に来た理由はさまざまです。 ウィリアム・グラスはナポレオンのセント・ヘレナ幽閉という歴史的背景があります。 トーマス・スウエインの場合は, グラスがトリスタン・ダ・クーニャ「建国」の初期に, この島で生計をたてるために必要な補充人員として要請されたように思えます。 18世紀の中ごろはアメリカの捕鯨やアザラシ漁が盛んに行われていました。 もしそうでなければ ピーター・グリーンやトーマス・ロジャーズ, アンドルー・ヘイガンの3人が島に来ることはなかったでしょう。 彼らのうちピーター・グリーンは船の遭難で, 他の二人は島が気に入って(というより島の女性と恋愛関係になって?)島に残りました。 イタリア人のガエタノ・ラバレッロとアンドレア・レペットも ピーター・グリーンと同じく船の遭難がきっかけです。 彼らについては, 上記の5人とは世代が下り, ウィリアム・グラスを知りません。 そして彼らが来た時代は, 捕鯨やアザラシ漁が衰え, スエズ運河ができて大西洋を回る船が減り, 仮に南大西洋を回る船があっても, 帆船から汽船に性能が上がりわざわざトリスタン島に寄港することもなくなって島の存在価値がなくなりつつあるころでした。 そして忘れてはいけないのが, 島の働き手を一気に失った遭難(事故というより)事件をきっかけに人口が流出し始めたころだったこと。 ですから彼らのイタリア人らしい陽気さと若さ(26歳)が, 島には大きな救いになったと推測できます。 ところでトリスタン・ダ・クーニャの島民構成の特徴として, 国際性があります。 ウィリアム・グラスはスコットランド, トーマス・スエインはイングランド出身でフランスや南アフリカで過ごした過去があり, ピーター・グリーンはオランダ人でありながらアメリカの船の乗組員でした。 トーマス・ロジャースとアンドルー・ヘイガンはアメリカ人, そしてガエタノ・ラバレッロとアンドレア・レペットはイタリア人です。 ちなみに男性が白人であるのに対し, 女性はウィリアム・グラスやトーマス・スエインの妻が黒人と白人の混血のムラートであったように(後者の場合は集団見合い結婚です), アフリカやマレーシアの血を引く有色系でした。 |
![]() 英軍艦ファルマス号 兵士をケープからTDCに輸送した。 |
William Glass ウィリアム・グラス 1786年(資料によっては1787年もあり)5月11日スコットランド・ケルソ生 1816年(30歳ころ)ナポレオンの幽閉地セント・ヘレナ島の後衛基地となったトリスタン・ダ・クーニャに兵士として訪島, 英軍撤退後も退役した上で要塞の管理保全するために島に残留することを志願した。 1853年11月24日(67歳ころ)没。 別名 Governor Glass (グラス総督)または単に Governor。 l詳しくはここをクリック。 |
| 切手に描かれているファルマス号はウィリアム・グラスなど英軍の兵士がケープからトリスタン・ダ・クーニャ渡来時の船。 |
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![]() ビクトリー号 |
Thomas Swain トーマス・スウェイン 1760年?イングランド南部ヘイスティングス生まれ。 13歳で船員。 ナポレオン戦争(1799年〜1815年)時, トラファルガルの戦いで旗艦ビクトリ号に乗船, ネルソン提督が銃弾に撃たれ倒れたときに体を支えたと言われている。 (切手に描かれているのはそのシーン) |
![]() トリスタン・クーニャ発見500年記念の切手に描かれたトーマス・スウェイン。 要はただの市井の人ですが, 記念切手でみると偉人に見えます。 |
その後リスボンで海軍の兵役をするが18年目に脱走, フランス軍に囚われ3年の捕虜生活中, 自国イギリス軍に捕まりフランス兵として9年間捕虜生活を送る。 1815年に釈放後南アフリカのケープの商船で働き,後に海鳥の卵を集めて生計をたてる。 1826年 食糧や水など求めて当時トリスタン・ダ・クーニャにたびたび寄っていたグロスター伯爵号のアム船長(オーガスタス・アールが乗って来た船)に説得されてアレキサンダー・コットン(別名ジョン・テイラー)とともに訪島。 1827年セント・ヘレナから来た女性サラ・ジャコブズと結婚。 10人の子供の父。 1862年102歳で死亡とされているが, 実際は10歳くらい若かったと言われている。 |
![]() エミリー・オブ・ストニング号 |
Peter William Green ピーター・グリーン 1818年4月14日オランダ・カトェイク(Katwijk)生まれ。 オ 教養があり英語も話せたのでアメリカ船エミリー号(あざらし漁をするためゴフ島に漁師を運送)の船員になる。 エミリー号は1836年(28歳)トリスタン・ダ・クーニャの産物であるゾウアザラシの脂を盗もうとして島に接近するが座礁遭難。 島民に救助される。 |
ウィリアム・ダーレー(アメリカ人)とピータ・ミラー (デンマーク人)とともにトリスタン・ダ・クーニャに残留, 二人が島を出た後も1人残る。 メアリー・ジャコブスと結婚。 オランダ名 Pieter Groen を英語読みにした Peter Green と改名。 1865年からは島の長になる。 また島に聖職者がいないときはその代役を務める。 読書好きでまた絵画も嗜み晩年の楽しみとする。 1896年数々の遭難者の救助に対してエリザベス女王からグリーン宛に直筆の手紙と女王の肖像がが贈られる。 1902年(92歳)没。 |
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![]() アメリカの捕鯨船 (注) この切手にある Joshua Rogers は Thomas Rogers の間違え。 |
Rogers 姓の元祖は1836年にアメリカから捕鯨漁に来た Thomas Rogers トーマス・ロジャーズ(1820年生)。 ウィリアム・グラスの次女ジェーン・グラスと翌年結婚。 しかし1839年,寄港した捕鯨船とともに島を出てアメリカに帰国。 切手に記述のあるJoshua Rogers ジョシュア・ロジャーズ はトーマスとアンの間に1840年に生まれた長男で, 母親とともにトーマスのいるフィラデルフィアに渡る。 1859年に母親とともに島に戻りサラ・コックス・スェインと結婚, 子供5人儲ける。 しかし爆発事故で気が狂い崖から飛び降り自殺。 (死亡年不明) |
| Andrew Hagan アンドルー・ヘイガン 1816年(または1808年)アメリカ生まれ 捕鯨船の船長。 1849年にアルゼンチン沖のサウス・ジョージア島で捕鯨をしていたが不漁でトリスタン・ダ・クーニャを来訪し定住。 セリーナ・グラスと結婚するが若くして病死。 ヘイガンは財産をそのまま受け継ぎ「家畜王」とあだ名がつく。 後に再婚。 子供は全部で12人。 ピーター・グリーンと対立するグループのリーダとなるが, 1898年(または1893年)気が狂い自殺。 |
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![]() イタリア号※ |
Gaetano Lavarello ガエタノ・ラバレッロ 1867年12月9日イタリア・カモーリ生。 イタリア商船イタリア号の船員であったが,1893年3月(25歳)同船座礁, 島民に救助されレペットとともに島に残ることを希望。 メアリー・ジェーン・グラスと結婚。 子供6人。 1952年8月9日没(84歳)。 |
| ※スコットランドのグリーノックからケープタウンに向かっていた Italia号の貨物の石炭に火がつき急遽進路をトリスタンに向け, 小爆発を起こしながらも島の南岸に到着, 島民に救助される。 乗組員16人はイタリア人らしく救助される際に運び出した楽器を弾き歌ったり踊ったりして, 彼らを連れて帰る船を待つ間, 半年を島で楽しく過ごしたと言う。 | |
| Andrea Repetto アンドレア・レペット 1867年1月13日イタリア・カモーリ生。 元イタリア海軍兵士。 イタリア商船イタリア号の船員であったが,1893年3月(同船座礁。 島民に救助されラバレッロとともに島に残ることを希望。 1894年フランシス・キャロライン・グリーンと結婚,7人子供。 教養がありまた手先が器用で自分のスーツを縫ったり Italia 号にあった紡績機で釣り糸を作る指導をしたり, 英語が達者なので Lavello の通訳をしたりした。 1911年2月9日(44歳)没。 |
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