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超トリビアな! トリスタン・ダ・クーニャの歴史 
                  独学トリスタン・ダ・クーニャ メルマガ(現在休刊)より編集

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【謎の3人組】

 さてバウンティ号事件の当事者の一人ピーター・ヘイウッドは事件から21年たった
 1811年1月初め,37歳のときに艦船ネレウス号の艦長としてトリスタン・ダ・クーニャ島を訪れます。

 The Annals of Tristan da Cunha には中国へ行く途中,寄港したとあります。
 が,場合によってはアルゼンチンかもしれません。
 海事関係のサイトにピーター・ヘイウッドは1811年アルゼンチン内戦から
 英国商人を保護するため1年間ブエノス・アイレスに滞在したという記載がある
 からです。


 そしてここで3人の男と出会います。
 アメリカ・マサチューセッツ州セイレム出身のジョナサン・ランバート,
 イタリア・リボルノ出身の米伊のハーフ,トマソ・コッリ(トーマス・カリィ),
 そして本名不詳のウィリアムズです。 
  

 このときもしくは翌日ヘイウッドは,バルチック号というアメリカ船とも遭遇し
 ます。 

  (注)資料によってはランバートら3人はこのときバルチック号に乗ってトリ
     スタン・ダ・クーニャにやって来たとしているものがあります。

     他の資料ではこの10日ほど前の1810年12月27日にランバートらをバル
     チック号が連れて来たとしています。つまりこの資料に従えばヘイ
     ウッドが来た時はすでにランバートらがトリスタン・ダ・クーニャに
     いたことになります。

     またヘイウッドがトリスタン・ダ・クーニャに来た日も1月5日〜8日
     まで開きがあります。
     バルチック号の来航の日付もまちまちです。
     このように1810年12月の終わりから翌年1月の初めのトリスタン・ダ・
     クーニャの史実は資料によって違いがあり確定できません。
 

 そして,ヘイウッドはバルチック号の船長から,バルチック号が1年前にアザラ
 シ狩りをするため漁師の一団をゴフ島という島に上陸させ,これから彼らを迎え
 に行くところであることを知らされます。

 トリスタンに来た当日または翌日,ヘイウッドはバルチック号より先に島を後
 にし, わざわざ航路を外れて今度はトリスタンから南東へ350キロ離れたとこ
 ろにあるゴフ島に向かいます。

 ヘイウッドはバルチック号が迎えに来る前に漁師の引き揚げの手伝いを買って
 出たのでした。
 イギリスの軍艦がアメリカの漁民の援助するという行為に,このイギリス艦長の
 人柄がしのばれます。 
 (この翌年1812年から米英戦争が始まります。)

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 【ゴフ島】
             
 それでは私たちもゴフ島を訪れることにしましょう。

  http://www.btinternet.com/~sa_sa/gough_island/gough_island.html
  (英語)

 まずこのページを開けると現れるゴフ島の姿に圧倒されますね。

 ゴフ島は長さ14km幅7kmの楕円形をした,海抜910mの山を頂く急峻な地形の島で
 トリスタン・ダ・クーニャ群島の1つです。
 人に荒らされていない豊かな動植物があり島全体がユネスコの世界遺産になってい
 ます。

 16世紀にポルトガル人ゴンサロ・アルバレスによって発見されディエゴ・アルバレ
 ス島と名付けられましたが1731年に英国船リッチモンド号のゴフ船長に再発見され
 英米の海獣猟業者からゴフ島と呼ばれるようになったようです。
 
 クジラやアザラシを獲る海獣猟業者が滞在することはありましたが,定住者が
 いた記録はありません。
 現在,南西部の平地にある気象観測所にスタッフが数人長期滞在しています。 
 面白いことに行政上はイギリス領(トリスタン・ダ・クーニャの一部=セント・
 ヘレナの一部)ですが気象観測所は南アフリカ環境観光省が管理しています。

 
              ●●●●●●

 上記のページの中ほどにピーター・ヘイウッドのゴフ島探訪の記録があります。
 ここにその訳を載せます。

   夜明けに風は南風に変わり,空は晴れ渡った。 
   ゴフ島は頂きの方は雲に隠れていたが麓とその先端部だけだは我々から6リー
   グ(約18マイル=28キロ)先に見えた。

   帆を揚げて近づくと北西の方角に岩が見えたが,これは尖塔のある教会とい
   う表現がぴったりであった。全島の輪郭は険しく,海からほとんど垂直に
   高い崖の状態で聳え立ち,地面の裂け目から美しい小滝が幾本も落ちていた。

   8時ごろ小さな入り江に,下部が穴だらけの高く尖った岩で,雨風をしのい
   でいる小屋が見えた。これがバルチック号の船長が去年ここに残留させたア
   メリカ人の漁師の住まいであると思われる。

   私は船を動かしカッター船で大尉を乗せてもし安全であれば島に上陸し彼ら
   の情報を得て,もし必要ならば手助けするように命じた。 
   彼は大きな岩の東側に上陸したが小屋の中にも近くにも人影はなく12時ごろ
   戻ってきた。

   が,ちょうど同時にチャーチ・ロックの南側から一隻の船が回ってくるのが
   目撃されたので,そちらに船の進路を変え小船を収めた。 
   船の中にはバルチック号の船長が残留させた者たちがいたが,彼らに,島か
   ら帰れるように今日中に船が迎えに来ると告げると皆多いに喜んだ。

   食料が不足することはなかったようだ。 彼らの情報では夜,灯を点せば山
   の頂き付近でいろいろな鳥が捕まえられたらしい。 大量に群れているので
   棒でたたいて捕まえたと言う。
   上陸した時の食料の残りがあったし,15分もすればいつも食べきれないほど
   の魚が釣れたそうだ。

   しかし上陸したときの期待ほど漁は成功しなかったようだ。 
   1,100枚のアザラシの皮をなめすことができただけなので分け前としては
   『新しい索具装置1組』分しかならなかっただろう。本当は一組ではきかな
   いだろうに。 何しろ彼らは脂と汚物まみれでアザラシの皮でできた服を
   着ているという窮状だったのだから。

 このようにアザラシ狩りのために南大西洋から南氷洋の島々,さらに南極の一部に
 英米の漁師が留まることは18世紀の終わりから19世紀の中ごろにかけてよくあった
 ことのようです。

  

つづく