世界で一番遠い島の歴史 

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誰も知らないトリスタン・ダ・クーニャの詳しい歴史や人物の紹介をぜひお読みください。
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島名トリスタン・ダ・クーニャ(Tristan Da Cunha)は1506年この島を発見したポルトガル人の航海士 Tristão da Cunha に由来しています。  以来オランダ, フランス, イギリス東インド会社などがこの島の所有を考えましたが, 上陸する土地もないため19世紀初めまで無人の孤島のままでした。
トリスタオ・ダ・クーニャの旗艦


                   
                   島を発見したトリスタオ・ダ・クーニャ

19世紀の初めになるとアメリカの捕鯨船の臨時基地として使われるようになります。 
そして1810年トリスタン・ダ・クーニャ島に初めて定住者が現れます。 アメリカ人ジョナサン・ランバート以下3名の船員が島に上陸, ランバートは島をリフレッシュメント島と改名し帝国の皇帝を名乗り「統治」します。 彼らは島を大西洋を渡る船の中継基地として水や食料などを供給するビジネスを始めます。 しかし2年後にランバートは謎の死を遂げます。


 
ランバートとその仲間。 商品になるキャベツの栽培をしているところ。



トリスタン・ダ・クーニャの歴史で最も謎のある, そして想像力を駆りたてられるのが, この「3人の帝国」とそれに続く「ひとりぼっちの海賊」時代です。  この辺りの詳しい内容はここをクリックしてください。


1816年11月28日トリスタン・ダ・クーニャ島はイギリスに併合されます。
前年ナポレオンがセント・ヘレナ島に幽閉され, フランスによるナポレオン救出を阻止するためトリスタン・ダ・クーニャ島をイギリス軍の駐屯基地とするのが併合の目的でした。  
 イギリス軍の駐屯兵


翌年1817年駐屯軍はトリスタン・ダ・クーニャ島から撤退しますが,駐屯兵の一人スコットランド人ウィリアム・グラスは任務後も妻子ともにこの島に残ることを希望します。 グラス一家4人は軍から家畜などを譲り受け定住生活を始めます。 
     ウィリアム・グラスの略歴



その後19世紀の半ばまで幾人かの移住者が現れ(1856年の島の人口は97名)現在のトリスタン・ダ・クーニャの礎ができます。


  19世紀の島にやってきた人々(年表:pdfファイル)


 初代総督ウィリアム・グラスとその家   


以降, 時折捕鯨船など島の近くを通過する船へ新鮮な野菜や肉をバーター貿易して外の世界と接触しつつ, 貨幣すら存在しない自給自足を基本とした原始共産社会が形成されます。 
新開地
19世紀欧米列国がアジア・アフリカ・中南米・オセアニアへ進出するにつれて海外の事象を本国に伝える新しい職業が生まれます。 船に乗りこみ行き先々の原住民の暮らしを絵に書き表す旅行画家とでも言うべき画家が登場します。 


イギリス人オーガスタス・アールもそのような旅行画家の1人です。 1824年, 彼はブラジルから南アフリカのケープへの途中トリスタン・ダ・クーニャに寄港しますが, 『説明できない理由で』彼は島に取り残されます。 それから半年,アールは島で暮らすことになりますがそのときの記録が現在も残っており当時の島の姿を知る貴重な資料となっています。
オーガスタス・アールの日誌はここをクリック
19世紀後半になると,時代は帆船から蒸気船に移り,スエズ運河が開通してヨーロッパ・アジア間の通運が大西洋を経由しなくなるとトリスタン・ダ・クーニャは急速に寂れます。 アメリカやケープタウンに移住する島民も出ますが, 島に残った住民は海難救助に貢献し, 1876年,イギリス政府はこれを認めトリスタン・ダ・クーニャを公式に大英帝国の一部と宣言し年に1回軍艦が物資を運ぶようになります。
 

イギリスがこの南大西洋の孤島を大英帝国の一部にしたのは, 当時イギリスの南アフリカ進出と関係があります。 イギリス領土になるとトリスタン・ダ・クーニャにもわずかながら国際社会の波が寄せてきます。 イギリスと南アフリカのオランダ系住民ボーア人との間で起きた1899年のボーア戦争ではトリスタン・ダ・クーニャの住民の一部も出兵します。


18世紀の終わり, トリスタン・ダ・クーニャの歴史上, クイーン・メアリ・ピークの噴火と並ぶ, 島を揺るがす出来事が起きます。 1885年11月28日男性18人中15人の乗ったロング・ボートが, 島の北部ビッグ・ポイント沖で沈没, 全員死亡という大惨事が起きます。 この事故で島に残されたのは女・子どもと年寄りだけとなってしまったのです。 通信の発達していない当時, この事故は島に寄港した船を通して徐々に外部に知らされ, 物資の補給が人材の派遣などがなされました。 島民をケープタウンに移住させる計画もありましたが, 島民はこの苦難を乗り越え島社会は存続します。



1938年, トリスタン・ダ・クーニャはセント・ヘレナの属領となります。 (セント・ヘレナ自体もイギリスの海外領土です)
セント・ヘレナの属領の宣言書


第2次世界大戦中(1942年)島に海軍基地ができその際に水産資源開発の調査が行なわれ, 戦後(1949年),島の特産物であるクレイフィッシュ(ザリガニの一種)を加工する工場ができました。 これにともないトリスタン・ダ・クーニャは初めて貨幣を導入します。 また1950年にイギリスから初代行政官が駐在, さらに医者, 教育者, 農業開発担当者などが島を定期的に訪れるようになります。


1961年島,島北部の定住地付近で噴火が起き北海道の昭和新山や有珠山のような形で島に一夜にして火山ができます。 このため全島民はイギリスへ避難します。 

島外避難する島民  
 この記念切手では沖合いにりっぱなイギリス海軍の船が泊まって救援しているように見えますが現実は異なります。  噴火と疎開の記録について 詳しくはここをクリック


島民はこのとき初めて「進んだ文明社会」を体験し一種のカルチャー・ショックを受けます。 1963年, 島の安全が確認されると多くの島民はイギリス政府の思惑と裏腹にトリスタン・ダ・クーニャへ帰島します。 

 帰島した島民



イギリスでの物質文明との接触から島民の生活は確実に変化するようになりますが, それでもなおテレビ等の取材は1年に1件だけと規定しまた観光地化するのも拒んで, 世界で一番遠い島の人々は淡々と暮らしています。 
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