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| zz10 | WF JD |
You Were On My Mind (The We Five/Joe Dassin) 恋がいっぱい (ウィ・ファイブ /ジョー・ダッサン) |
1967 |
| 歌詞(原詞・訳詞) | |||
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| 元歌はカナダのフォーク・デュオ, イアンとシルヴィアの書いた「ブルース」。 これを1965年アメリカのフォーク・ロック・グループ, ウィ・ファイヴ(30秒試聴)が歌い, ビルボード誌年間トップ100の第36位(35位が『ラブ・ポーション・ナンバー9』)のヒットになりました。 ここではその2年後の1967年にフランスでジョー・ダッサンがカバーしたものを取り上げます。 ジョー・ダッサン盤は4ビートのタンバリンが効いている『夢のカリフォルニア』風のいかにもフォーク・ロックというアレンジになっています。 (ちなみにウィ・ファイブの『恋がいっぱい』の方が『夢のカリフォルニア』よりもヒットしたのは先です。 前者は65年9月25日最高第3位, 後者は66年3月12日最高第3位) 【ジョー・ダッサンについて】 ジョー・ダッサンは1960年代70年代を代表するフレンチ・ポップスの歌手で代表曲は『オー・シャンゼリゼ』。 しかしこの『恋がいっぱい』を聞くと完璧な英語で歌っています。 それもそのはずで彼は1938年11月5日ニュー・ヨーク生まれ。 父親は著名な監督のジュールズ・ダッシン Jules Dassin (フランス語読みならジュール・ダッサン)はコネチカット州ミドルタウン生まれのロシア系アメリカ人でニューヨーク俳優をしたあと当時ヒッチコックのアシスタント・ディレクタをしていました。 1940年に一家はロサンジェルスに引越しジュールは映画作りと関わりを持ち続けますが, 戦後の『赤狩り』で仕事を追われ1949年に父親の故国フランスへ一家と共に渡りました。 しかしジョー自身は1950年にスイスの寄宿学校に入学, 翌年はイタリアの学校へ転校, さらに1953年には再びスイスの学校へと進み最終的にはアメリカ・ミシガン大学に留学します。 父親は監督・脚本家として名声を得るようになりジョーは大学卒業後, その父親のアシスタントとして働きます。 * 父親はジーナ・ロロブリジーナ主演『掟(La Loi:1958年)』やメリナ・メルクーリ主演『日曜日はダメよ(Jamais le dimanche)』などを監督。 1955年に彼はジョーの母親と離婚, 後にメリナ・メルクーリと結婚します。 やがて放送局で働くうちに音楽の世界へ道が開け, フランスCBSと契約し1966年に『グアンタナメラ』のフランス語盤を吹きこんでヒットします。 以降, 1969年の『オー・シャンゼリゼ』を含む多くのヒット曲を生みますが, 1980年8月20日バカンス先のタヒチで心臓発作を起こし急逝。 享年41歳。 故郷ハリウッドのハリウッド・フォーエバ墓地に眠っています。 【歌詞について】 もともとは「ブルース」として書かれたそうですが, その名残は歌詞の中に少し見えます。 変形はしていますがブルースの歌詞のように同じフレーズを2回繰り返しているのが特徴。 本物のブルースはフレーズがAABBCというように構成されています。 例:クロスロード・ブルース トラベリング・リバーサイド・ブルース ともにロバート・ジョンソン作 『夢のカリフォルニア』は散歩して教会に立ち寄ることが歌のモチーフになっています。 この歌でも散歩してブルーな気分を忘れようという一節があります。 私は「散歩する」という至ってシンプルな時間の過ごし方にこの時代の匂いを感じてしまいます。 そう言えばロバート・ジョンソンに『ウォーキン・ブルース』というブルースがありました。 (私はポール・バターフィールド・ブルースバンド盤のシングルなら持っています) I woke up this mornin', feelin' round for my shoes Know by that I got these old walkin' blues, well 今朝 目覚めて俺のシューズを探して辺りをまさぐった 自分でもわかってる いつものウォーキン・ブルースになってるんだよ という歌い出しなのですが, イアンとシルビアはこの歌にインスピレーションをもらったのかな,などフト思いました。
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