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ze26   【EUROPEAN POPS SERIES】 
【特別企画】
『オー・シャンゼリゼ』の誕生秘話
                〜あるサイケ・バンドの軌跡
 
1968
ウォータルー・ロード(一部)  原詞・訳詞
前ページからの続き


このページでは 『オー・シャンゼリゼ』の元歌 Waterloo Road 『ウォータルー・ロード』を歌った Jason Crest (ジェイソン・クレスト)イメージ検索という60年代末のサイケ・バンドについて, 彼らの5枚のシングルと未発表の曲を集めたコンピレーション盤CD Collected Works of Jason Crest (WoodenHill) の14ページに渡る老眼鏡なしではとても見えない小さな活字の解説(David Wells氏)やネット上の情報をもとにまとめてあります。
 



          


ジェイソン・クレストは1964年ロンドン南部の古都ケント州トンブリッジ(イメージ検索)でテリー・クラークがリーダとなって結成された5人組のバンドです。


ヴォーカル: テリー・クラーク (Terry Clarke)
ギター: テリー・ドブソン (Terry Dobson)
デレク・スモールコム (Derek Smallcombe)
ベース: ロン・ファウラ (Ron Fowler) 2枚目のシングルまで
ジョン・セリー (John Selley) 3枚目のシングルより
ドラムス: ロジャー・シガリ (Roger Siggery)


最初はスバーリウィーヴズ(The Spurlyweeves)とそれからグッド・シングズ・ブリゲイド(Good Thing Brigade)と名乗り地元やロンドンのクラブでレコード・デビューを夢見て演奏を続けます。 


3年の長い下積み生活が実り,  ロンドンのクラブで歌っているのを元フォー・ペニーズ(Four Pennies)のベイシストで当時フィリップス・レコードのA&Rマンとプロデューサを兼任していたフリッツ・フライヤ(Fritz Fryer)に見出され, ついに念願のレコード・デビューとなりました。 (その際,バンド名をジェイソン・クレストに改名)
(注)フォー・ペニーズはランカシャー出身の Lionel Morton (ボーカル,ギター)Fritz Fryer (ギター)Alan Buck(ドラマー)Mike Wilsh (ベース,キーボード,ボーカル)からなるバンド。 1964年に Juliet (オリジナル) が全英トップ1に。 他に I Found Out The Hard Way (1964), Black Girl (1964), Until It's Time For You To Go (1965)など。 1966年解散。 


          


【1枚目のシングル Turquoise Tandem Cycle】


1968年1月にリリースされた彼らのデビュー曲はオリジナルの Turquoise Tandem Cycle (直訳:トルコ石の二人乗りの自転車)。 



  一部
プロコル・ハルムまがいのオルガンを背景に
    トルコ石でできた二人乗りの自転車の
    タイヤはゴム製のリング 
    聖歌隊の沈黙の声
    沈黙の賛美歌集
というように訳のわからない歌詞が続くいかにも60年代末らしいサイデリックな作品です。 (このテンポはまさに60年代末。 この時代の音楽が身についている人なら自然と身体が動くでしょう)
フィリップス・レコードは First new group hit of 1968 (1968年の最初のニュー・グループのヒット曲)というキャッチ・コピーのもと, ラジオでの集中オンエアを試みてそれなりにプッシュします。 が見事ぽしゃります。 


確かに実際に全曲聞くと「こりゃ売れないわ」と思わせます。 最初はいいのですが同じ旋律を3分34秒最初から最後まで繰り返されるといい加減うざくなります。 しかも最後のほうはリズムは狂うわ, ボーカルは高音が出なくて苦しそうだわで, 口をぽかんと開けてあっけに取られている観客の姿が浮かんで来ます。
一部



          


【2枚目のシングル Juliano The Bull】


そこで2曲目は彼らの気に入っているオリジナル曲 My House Is Burning (直訳:ボクの家が燃えている)にしたいとレコード会社に申し出ます。
一部
が, たまたまザ・ムーブが Fire Brigate (直訳:消防隊)を出してヒットしており, これとかぶるのでボツになりました。 
『ケメコの唄』に対する松平ケメコの『私がケメコ』みたいなアンサーソングにすればよかったのにね。


代わってレコード会社がセレクトしたのは闘牛をテーマにした Juliano The Bull (直訳:牛のフリアノ)
一部
ところが詞が血なまぐさいスポーツを奨励しているということで, BBC放送の Top Gear Show という番組で放送禁止になってしまいます。 
といって彼らはBBC放送全体から締め出されたわけではなく平日の午後12時から2時までオンエアされていた BBC Radio One Club という番組には出演できました。 しかしこの番組宛てに1人のリスナーから「放送中にジェイソン・クレストのメンバーの1人がゲップをして不快だった」という趣旨の手紙が来ましたが。。


          


【3枚目のシングル The Lemon Tree】


2枚目もやはりぽしゃってしまい, フィリップス・レコードはここで結論を出します。 ― 彼らのオリジナルにしたのがまずかったのだ。
そこで3曲目は安直にも Fire Brigade の流れからザ・ムーブの (Here We Go Round) The Lemon Tree を選曲します。
一部
ここでサイケから, よりポップな音へ方向転換します。 がやはり売れません。 


          


【4枚目のシングル Waterloo Road】


ここで次のレコードの候補が挙げられました。
ビートルズもカバーしたミラクルズのスローなR&B 『ユー・リアリ・ガッタ・ホールド・オン・ミー(You Really Got A Hold On Me)』はどうか? 彼らは提案します。
一部
これはクイーン? と思わせる1968年当時としてはなかなか斬新なアレンジではないでしょうか? しかしすでにモータウン・サウンドをアート・ロックにアレンジしてヒットしているのがあることからボツになりました。
(注) バニラ・ファッジの『キープ・ミー・ハンギング・オン』(1967年)のこと。


そして彼らのオジリナルの Black Mass もサイケの雰囲気を十分醸し出していながら, 「黒いミサ」は反キリスト教的というのでこの曲も却下。
一部


結局4枚目のシングルとしてプロデュサのフリッツ・フライヤが押したのは, サイケとは正反対の健康的で明るい Waterloo Road。 作者はマイク・ウィルシュ(Mike Wilsh)とマイク・ディーガン(Mike Deighan)。 ウィルシュの方は彼らをフィリップスに連れて来たフリッツ・フライヤの所属していたフォー・ペニーズのメンバーです。 
(注1)ディーガンは当時または後に Jugular Vein というバンドのメンバーであったようです。
(注2)フォー・ペニーズのライオネル・モートンも歌っているようです。 (1969)

フィリップスは彼らにスタジオと本社のあるスタンホープ・プレイスの路上との二つのトラックを作らせ, これをミキシング, 「ストリート・バンドのサウンド(the street band sound)というキャッチ・コピーで売り出します。 プロモーション用に上の写真も撮影しました。


ウォータルー・ロード(一部)  原詞・訳詞


          


【誰が歌っているのかわからない競作曲】


当時ロンドンにフランスの人気歌手ジョー・ダッサンが滞在していました。 (ジョー・ダッサンについては別ページに解説があります)  何かの機会に彼は『ウォータールー・ロード』を聞き, これが気に入り3枚目のアルバムに収めることにしました。 こうしてDown Waterloo road は 作詞家ピエール・デラノエ(Pierre Delanoë)によって  Aux Champs-Elysées に変わったのでした。


結局『オー・シャンゼリゼ』はジョー・ダッサンの最大のヒット曲となりました。 それならイギリスに逆輸入すればよいのに, ジェイソン・クレストは『オー・シャンゼリゼ』がフランスで大ヒットしている間, ドイツで営業をしていて我関せずの態度を取ったのでした。 彼らは『ウォータルー・ロード』への固執はまったくなく, これを歌ったのは失敗であったと信じていました。  だからアルバムを作る話が出た時に, 『ウォータルー・ロード』はその中に含まないように申し出たほどでした。


『ウォータルー・ロード』(『オー・シャンゼリゼ』)はイギリスをはじめヨーロッパやオーストラリアでも流行りました。 しかし他の流行歌と違うのは早くにスタンダード化して元歌を誰が歌ったかわからなくなったことが挙げられます。 『恋は水色』『悲しき天使』や『マミー・ブルー』などは演じている者の名を全面に出した競作であったのと対照的です。 


また歌っている歌手もローカルな範囲しか知名度がないという特徴もあります。  ジョー・ダッサンですらフランスやヨーロッパ大陸以外では知られている歌手とは言えませんし, 日本や韓国や台湾で流行ったダニエル・ビダルは本国フランスでの知名度は高いとは言えません。


この歌をオーストラリアのスマッカ・フィツギボン(Smacka Fitzgbbon)というバンジョー歌手兼レストラン経営者であると紹介しているサイト(ジョー・ダッサンのファン・サイト)があり, その情報がコピペされてネット上では広がっています。  この件についてオーストラリアで流行った50年代から70年代のポップスのオリジナルが何であるかを扱うサイト http://www.poparchives.com.au/feature.php?id=344 に書かれています。  


ある掲示板によるとイギリスではデイブ・ベントン(Dave Benton) というカリブ海のアルバ生まれのパフォーミング・アーチストの持ち歌でもあったようです。 この歌手はアメリカに渡りドリフターズやプラターズなどと仕事を共にした後, ヨーロッパ各地を点点とし, 1997年からはエストニアに居を構え2001年にはエストニア代表としてユーロビジョン・ソング・コンテストで優勝しています。


イギリスでもっとも知られた『ウォータールー・ロード』(『オー・シャンゼリゼ』)のカバーの一つははミセス・ミルズ(Mrs. Mills)という家族向けの「楽しい」ピアノ演奏で知られるピアニスト(故人)。 アルバム試聴 ジェイソン・クレストのリーダ, テリー・クラークが『ウォータールー・ロード』は自分たちの曲ではないという認識を持ったのは彼女がアルバムに『ウォータールー・ロード』を含んだのを聞いた時だと告白しています。 


          


【最後の5枚目のシングル A Place In The Sun】


『ウォータールー・ロード』を歌っている複数の歌手の1人とされ, 結局相変わらずウダツの上がらないジェイソン・クレストはついに5枚目のシングルを出すことになりました。 契約上は5枚のシングルを出すことになっていたので, これが最後のチャンスです。 がバンドはデビューして実りの少ない1年半が経ち, すでに空中分解しつつありました。フィリップスもプロデューサのフライヤも関心は別のバンドに向いていました。


このようなような状況の中, 1969年8月, 彼らの最後のシングル A Place In The Sun (直訳:日溜りの場所)が発売されました。 白鳥の歌のごとく今まで最も悲しげなメロディの曲です。 リーダのテリー・クラークは自分の気持ちを詞に託しているように思えます。
  独りぼっちになって もう長い
  自分が過ごした時間分ある
  俺は日溜りの中に 居場所を探している
  日溜りの中の場所
一部


          


【それからのジェイソン・クレスト】


カバーのデザインまでできあがっていた The Senile Mysteries of Black Mass というアルバムは結局お蔵入りとなったまま彼らは解散します。 リーダのテリーはメロディ・メーカの求人広告に答えてオランウータンというグループのボーカリストとなり, 他のメンバーはドイツのハンブルグで営業をします。 帰国後, 彼らは名前をハイ・ブルーム(High Broom) と変えメンバーの入れ替わりを経てアイランド・レコードと契約。 1970年にボッファロンゴ(Boffalongo)と競作で『ダンシング・イン・ザ・ムーンライト(Dancing In the Moonlight)』を出します。 ボッファロンゴの方は後にキング・ハーヴェストと名前を変えアメリカでもヒットすることになります。 


どうも彼らは自分の演った曲が他のアーチストによって流行るという運命にあるようです。


1971年, テリーと他のメンバーは縒りを戻しホリー・マッケレル(Holy Mackerel)として再スタート, CBSと契約して「英国のプレミヤ・カントリー・ロック・バンド」というキャッチ・フレーズでアルバムを2枚作成。 そのうち1枚がリリースされます。 しかしここでも鳴かず飛ばず。 彼らは彼らのバンド・エージェントでありマネージャであったロジャー・イースタビー(Roger Easterby)の作ったサンタ・ポンサ(Santa Ponsa)レーベルに移籍します。 しかし1974年そのサンタ・ポンサ・レーベルが崩壊, それとともに彼らもついに力尽きてしまいました。
ロジャー・イースタビーはバニティ・フェアの『しあわせの朝(Early in the Morning:1969)』やチコリー・ティップ(Chicory Tip)の『サン・オブ・マイ・ファーザ(Son of My Father:1972)』などのプロデューサ。


          


【総括】


彼らはまったく才能がなかったわけではないのに自分たちの脇をヒット曲が通りすぎ自分たち自身はヒット曲と巡り合わない― いわばヒット曲の「君の名は」状態に陥っていたジェイソン・クレスト。 時の運がないのでしょうか。 彼らが進もうという方向性がはっきりしなかったというのも一因ですが, CDの解説にもあるように彼らはあまりにもレコード会社やプロデューサの言いなりになり過ぎて自らの命を落としてしまったと言えます。 もし彼らがもう少し自己主張していれば変わった歩みをしていたでしょう。


40年の年月と9500km の距離を隔て, ジェイソン・クレストという日本はもちろん本国イギリスでもほとんど無名のグループの軌跡をたどってみました。  洋楽が一番元気であった1960年代末から70年代始めのイギリスでどのようにバンドがレコード・デビューしそして去って行ったのか, 商業音楽界の姿を垣間見ることができたような気がします。


それにしても今彼らはどうしているのでしょう。 『オー・サシャンゼリゼ』の歌のように明るく生きていることを願って, この項(了)。