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| ze11 | 【EUROPEAN POPS SERIES】 Giardini di marzo (Lucio Battisti) 3月の庭 (ルチオ・バッティスティ) |
1972 |
| ルチオ・バッティスティと言ってもほとんどの方はご存知ないでしょう。 ’ルチオ・バッティスティ’で検索しても33件しかヒットしません。 (もし’ルチオ・バッティスティ’で検索してこのページを開いた方はぜひご連絡ください。 別に景品など出ませんが。。) 日本でイタリアン・ポップス(もしくはカンツォーネ)が脚光を浴びていたのは60年代だけと言っていいでしょう。 70年代になると一部の熱烈なファンを除き, 一般のアチラの音楽好きからは見向きもされなくなります。 私の場合も, 英語にいい加減飽きて他の外国語をいろいろかじり出した先に, イタリアン・ポップスがあったということで音楽そのものから入ったわけではありません。 イタリア語を知ったところで旅行する予定もなく, 知り合いがいるでもなく, カトリック教徒でも共産主義者でもなく(イタリアは当時西側で最も共産主義が勢力のある国でした), ここはお気楽に音楽でも聞くかというのでちょっと金があるとイタリアン・ポップスのレコードなど買っていたのです。 60年代にはたびたび話題になっていたサンレモ音楽祭の残照すらほとんどなくなっていたころですが, それでもキング・レコードから毎年サンレモ音楽祭の入賞曲のオムニバス盤など出ていて, それはそれで私は結構ハマってはいました。 それよりもナニゲに買ったルチオ・バッティスティのアルバムに衝撃を受け, 当時発売されていた彼のアルバムはすべて(と言っても4枚だけでしたが)買い揃えました。 誰も知らないイイモノを知っているというのはちょっとした誇りでした。 ルチオ・バッティスティは1943年3月, ローマの南の人口2,000人あまりのポッジョ・ブストーネで生まれますが7歳でローマに移ります。 音楽との関わりは遅く21歳(1964年)のときガレージ・バンドに参加したとき。 しかしこの経験が強烈だったのか翌年1965年には音楽家になるべくミラノに行き, クリスティーヌ・ルノーというスカウトと出会います。 彼女はイタリアン・ポップスには欠かせない作詞家モゴールと引き合わせ, ここからルチオ・バッティスティの才能が花開きます。 モゴールは数多くの歌詞や訳詞を手がけた人です。 グラス・ルーツの今日を生きようの元歌ロークスの Piangi con me (直訳: 君はボクと泣く)やボビー・ソロの『君に涙と微笑を Se piangi, se ridi 』やルチアーノ・タヨリの『アル・ディ・ラ Al di la』などが日本で知られている作品です。 ルチオ・バッテスティは彼と組みイタリア・ポップス界に多くのヒット曲を送ります。 が彼自身もついに歌を歌う機会が訪れます。 1969年 Balla Linda (直訳: 踊ってリンダ)がカンタジーロ・コンテストで優勝, 話題になります。 グラスルーツは『今日を生きよう』に続き, このイタリアン・ポップスを取り上げて英語版でリリースします。 それが『愛しのベラ・リンダ(Bella Linda)』です。 1971年には Pensieri e amore (直訳:考えと愛)がイタリアで19週間ヒット・パレードのトップを独走, さらにビルボード誌から Tredsetter Award (直訳:流行を作り出す人賞)を贈られます。 彼が最も輝いていたのは1972年4月, 自分のレーベル, ヌメロ・ウノからアルバム『人間への夢(Umanamente uomo)』を出してからです。 この『3月の庭』はこのアルバムの中に収録されている曲ですが, 流行歌作詞家モゴールの文学的な香りのする詞とバッティスティの美しいメロディと繊細かつ個性的な声と歌い方は, 今までにない’カンツォーネ’の世界を創ります。 同年の11月, アルバム『我が自由の歌』(Il mio canto libero) を出し, シングルカットされた同タイトルの歌はベストセラーとなります。 翌年73年に 『我らの美しき天使(Il nostro caro angelo)』 を 74年には 『二大世界(Anima latina)』 をリリースします。 モゴール=バッティスティのコンビは言わば, バーニー・トービン=エルトン・ジョンのイタリア版と見ていただければいいでしょう。 彼らの合作による作品の完熟期がこの4枚の出ていた1970年の初めです。 それからしばらくはドイツで録音したり英語版を出したりと国際的にも活躍しますが, 1978年, 彼はマスコミの取材を拒否, 自宅にこもりここでレコード製作だけして人前で歌わなくなります。 1980年, イギリスで録音している間に長年つきあっていたモゴールと決別を表明。 他のアーティストと仕事をしたり妻の詞に曲をつけるなど新しい試みを始めます。 80年代90年代は, 2年から4年おきにアルバムを出しますが, 以前の輝きはありません。 そして1998年9月9日, 肝臓ガンで死去。 享年55歳。 私はこの事実をつい1ヶ月前(2003年11月)に知って, しばらくショックでした。 70年代の初期の彼の全盛期以降, 私は彼のアルバムは買っていなかったし(そもそも日本で発売されていなかった可能性あり), 買っていたレコードを聞きたくてももうCDの時代, 再生する機械がありません。 ただときどき頭の中で彼の曲が流れることがあり, どうなったのかとは思っていたのですが。。 (ミア・マルティーニというバッティスティと同じ頃活躍していた歌手で, 私もアルバムを2枚持っているのですが, 彼女も1995年に亡くなっていたことも最近知ったばかりでした。) 『3月の庭』について。 金はないし, 女のコに飽きられてしまうような内気で繊細な青年が主人公の歌です。 自分の中に大きな宇宙や大きな愛を持ってるけど, 生きて行く不安も持っている―― この青年の世界観とその心理は時代を超えて青春時代にだれもが持つものではないでしょうか。 とりわけ, 日本の 70年代初期のTVドラマ『俺たちの旅路』とか『神田川』とか『22歳の別れ』などのフォークとかが描いた繊細で哀しい青春像の世界とどこか通じるような気がします。 フォーク・ギターが中心になっているアレンジのせいかもしれませんが。。 もちろんイタリアですからやはり歌はイタリアンです。 サビのところの盛り上げ方はやはり’カンツォーネ’ですし, ストリングスの絡みを聞くとヨーロッパという感じがします。 なお訳したあとで当時のレコードをひっぱって歌詞カードを見たのですが, 私とその歌詞カードの訳者では解釈が違っている個所が数カ所あります。 当時はまだイタリア語をかじり始めた頃なので, こういうことは書けなかったのですが, 今は多少人生経験も踏んだせいか, 歌詞を読んでも自分なりの解釈ができるようになりました。 ここでレコードの歌詞カードと大きく異なる部分を記しておきます。 私はこの歌の主人公, あまり豊かな生活はしていない。 金に困って母親の服を売ろうとか本を売ろうとか考えていてる若者の青春の一コマの歌ととらえています。 ここが当時のレコードの歌詞と多いに違うところです。 最初の2連は, レコードの歌詞では, 「学校が終わって本を売っている子供のそばでその本をじっと見てその本を模写したいけどその勇気のない主人公の子供時代の思い出」のような訳になっています。 これは guadarli と imitarli の li を libri ととり imitare を「模写する」ととっているからで, わたしは両方の li は ragazzi を指し, imitare は「本を売っている少年のまねをして自分も本を売って金の工面をしようと思っている」ととっているのです。 そして続く tornavo a giocare の部分は「知性と苦悩をもてあそぶために家に帰った」とあり, 本を見ていた主人公が学校から家に帰ったかのような訳になっていますが, 私は, 主人公が家の窓から学校を見て, 彼らのように本を売ろうかと思っていたけど, それもできずに「また悶々と物思いにふけた」というようにしています。 つまり私はtornare +a +不定詞は 辞書にあるように「再び〜する」と訳したわけです。 なおレコード訳では All' uscita di scuola を「学校が終わると」としていますが「学校の出口」でいいのではないかと思うのです。 辞書には all'uscita dalla scuola が「放課後」とでていますが, これは前置詞が di ではなく da です。 di は英語でいう of で da は from なので uscita di scuola は「学校の出口」でしょう。 インターネットで検索しても「学校の出口」の意味ととるべき用例ばかり見つかるし。。 あと1点, 5連目の Se mi aiuti son certa che io ne verro fuori 。 これは certa という certo の女性形が出ているので, 主人公に愛想をつかした恋人の, この前にある「あなた死んでるわ」の続きの言葉ととるべきなのに, レコードの歌詞カードでは主人公の男性の言葉となって「ボクを助けてくれたらここからきっと助かるだろう」と訳しています。 |
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