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z38    The Letter  (Box Tops)
 あの娘(こ)のレター  (ボックストップス)
1967
vs
Hitchin' A Ride   (Vanity Fare)
 夜明けのヒッチ・ハイク (バニティ・フェア)
1970
あの娘のレター  原詞・訳詞
夜明けのヒッチハイク  原詞・訳詞
今回は 「あのコのもとへ帰らなきゃ。 気持ちは焦るが, 帰る手段が。。。」 という対決です。


           


【ボックス・トップスについて】


ボックストップスはテネシー州メンフィス生まれの5人組。 メンバーは
アレックス・チルトン Alex Chilton=1950年12月28日生  ボーカル,ギター
ビル・カンニンガム Bill Cunningham=1950年1月23日生  ベース,キーボード
ジョン・エバンス John Evans=1948年6月18日生 ギター, キーボード
ダニー・スマイズ Danny Smythe=1948年8月25日 ドラムス
ゲーリー・タリー Gary Talley=1947年8月17日 リードギター


今回のボックス・トップスについてのこの記事は Off The Record という本を参考にして書いています。 これはCDが2枚付きの本で, 12人のアメリカのソング・ライターの肉声で代表曲のエピソードを聞くことができます(CDには曲は入っていません)。 (アメリカのアマゾン・コムなら中身を一部公開しているので table of contents (もくじ)を見ればどの曲が取り上げられているかわかります) グラハム・ナッシュがCDの進行役をしており, 各曲には彼の筆による絵とソングライターの直筆の歌詞があります。 


この本には『ソウル・ディープ』と同様, 『あの娘のレター』をボックス・トップスに提供したウェイン・カーソン (Wayne Carson)のインタビューもあります。 
(注) ウェイン・カーソンはカントリー系の歌を作りエルビス・プレスリ, ウィリ・ネルソンらが歌っていた Always On My Mind が有名で, 現在テネシー州ナッシュビルに在住。 1997年に Nashville Songwriters Hall of Fame に殿堂入りしています。


カーソンは『あの娘のレター』の誕生秘話としてこんな話をしています。
「おやじは「ショーティ・トンプソンと彼のサドル・ロッキン・リズム」という17人からなるウエスタン・スイング・バンドのマスタをしていて, 曲作りのメモを残しておく習慣があったんだ。  おやじのそのメモを見ていたらそのメモの3ページ目に Ticket for an aer-o-plane という走り書きがあった。  "aer-o-plane" という奇妙な綴り方が印象に残ってこれをテーマにして Am/F/G/D のコード進行に乗せて詞を付けて作ったのが The Letter なのだよ。」
(注) アメリカ英語なら飛行機は airplane と綴るのが普通。 イギリス英語なら aeroplane となります。 aer-o-plane は aeroplane を音節に分けて示したもの。


カーソンはその曲をレコード・プロデューサのダン・ペン(Dan Penn)に聞かせます。 ペンは, 皿洗いのバイトをしている若者たちのバンドがいるが, そのデビュー曲にしたいと言い出します。 彼らはデヴィルズ(The Devilles)と名乗っていましたが偶然同じ名前のバンドがレコードを吹きこんでおり, 現在は名前がない状態でした。


「レコーディングのとき, その若者たちが私に挨拶に来てね。 ダンもいっしょだったが, バンド名がないことが話題になったんだ。 するとメンバーの誰かが『コンテンストで決めたらどうでしょう。 ボックス・トップスを添えて応募するようにさせるとか』と言ったのだ。
(注) ボックス・トップ(box top) というのは商品のパッケージにある会社のロゴで, 懸賞に応募するときに切り取ったり, 日本のベルマークにあたる Box top for education のために集めたりする部分です。
ボックス・トップスという言葉が出たとたん私はメンバーの顔を見た。 脇にいたダンは私の腕を掴んだ。 そして私が言った。 『ボックス・トップスで行こう。』」 


『あの娘のレター』は1967年9月23日から10月14日までの1ヶ月間ビルボードトップ100の第1位になり, また1967年のグラミー賞の2部門にノミネートされました。 翌年1968年には『クライ・ライク・ア・ベイビ(Cry Like A Baby)』, さらに1969年には『ソウル・ディープ(Soul Deep )』がヒットします。 ボックス・トップスは1960年代後半のアメリカのヒットパレードにしっかり足跡を残したバンドとなりました。


しかし学校に通う10代のバンドということで, マネージャやプロモータなど周囲の大人たちからは不当な扱いを受けていたと最近になって告白しています。 チルトンとタリーを残して他のメンバーが脱退, 新しいメンバーを入れたものの1970年に解散してしまったのは, 彼らが受けた処遇のせいであったようです。 


解散後のメンバーで最も活躍したのはボーカルのアレックス・チルトンでした。 彼はアイドル的・コマーシャリズム的な路線ではなく, 渋い通向けのバンド the Big Star で活動をし, また多くの曲を他のアーチストに提供しました。 


さて他の多くの懐メロバンドと同じように, 彼らもまた1996年にチルトンを含むオリジナル・メンバーで再結成され, 現在も活躍中です。
彼らのオフィシャル・サイト http://www.boxtops.com/


           


【『あの娘のレター』について】


「あの娘(むすめ)」ではなく「あの娘(こ)」と読ませるのは, 女を(ひと), 運命を(さだめ)と読ませる歌謡曲っぽさがあって60年代の匂いがします。  それに今の曲と比べるとえらく短いのも60年代的。 


今聞くととりわけ強い印象がある曲ではありません。 しかし発表された当時はちょっとしたセンセーションを巻き起こしました。 ボーカルのアレックス・チルトンはまだ16歳。 しかし彼は白人でありながら黒人の雰囲気でカッコよく歌っていました。 彼のような白人でありながら黒人のように歌うのを「青い目のソウル(blue eyed soul)」歌手と言いますが, 彼はその最古参の1人であり最年少の1人と見なされています。 


歌詞に合わせたエンディングのジェット機の効果音が印象的。 もっとも私がこの歌をラジオでよく聞いていたころは, 最後のキーンがカモメが鳴いたのかと思い, このジェト機は海辺の町に行くんだなと解釈していました。
 


           


【バニティ・フェアについて】


バニティ・フェアはロンドン東部ケント州メドウェイ出身のディック・アリックス(ドラムス 1945年生まれ), トレヴォア・ブライス(ボーカル 1945年生まれ), トニー・ゴウルデン(ギター 1944年生まれ), トニー・ジャレット(ベース 1944年生まれ), バリー・ランドメン (キーボード 1947年生まれ)の5人からなるポップ・バンド。


「復讐する人たち」という意味の Avengers (アヴェンジャーズ)と名乗っていたころ,ある クラブでギグをしていたのを地元の興行師のロジャー・イースタビに認められたがデビューのきっかけ。 イースタビは彼らのマネージャを引き受けます。
(注) イースタビーは「オー・シャンゼリゼ誕生秘話 あるサイケ・バンドの軌跡」で触れているジェイソン・クレストとも関係があります。


彼らがまずしたのはバンド名の改名です。 一同介した場の本棚にサッカレーの『虚栄の市』(Vanity Fair) があったのをメンバーの1人が見つけ音感がいいのでこれにしようということになりました。 しかしインパクトがあるように Vanity Fair を同じ発音の Vanity Fare に変えました。  fare はふつう「運賃」の意味で使いますが, ここでは別義の「ごちそう」と取り「自惚れのごちそう」という意味合いにしました。 彼らのホームページによると全体として「愉しみのために幅広い音楽の「ごちそう」を提供しようと自惚れたことを考えているバンド」を意味するそうです。 


ほどなく彼らは, ラリー・ペイジとディック・ジェイムズによって1966年に設立されたペイジ・ワン・レコードと契約し, ビーチ・ボーイズのお父さんのマレイ・ウィルソンがマネージャをしていたサンレイズというカリフォルニア出身のグループの I Live For The Sun という歌をカバーしてデビュー。 これは全英ヒット・チャートの20位まで上がりました。
(注)ラリー・ペイジは元歌手でキンクスやトロッグスのマネージャをしていました。 ディック・ジェイムズはビートルズの音楽出版社となるノーザン・ソングズを設立し, のちにそれをビートルズの版権を売ってDJMレコード(エルトン・ジョンが所属)を作り話題になりました。


そしてその翌年1969年彼らはブレイクします。  クリフ・リチャードとの競作『しあわせの朝』が全英ヒット・チャートで8位, 全米でも12位になるヒット。 続いて出した『夜明けのヒッチ・ハイク』が1970年1月に全英で16位, 全米で5位になるヒット。 


しかし彼らが輝いていたのはここまで。 それからはヒットがなく一発屋ならぬ二発屋として, 過去の栄光のあるアーチストがよくやるドイツやオーストリアへの出稼ぎや自国での懐メロを引っさげての地方廻りをして現在に至ります。


           


【夜明けのヒッチハイクについて】


作者はピーター・カレンダーとミッチ・マレイ(Peter Callender & Mitch Murray)。 このコンビは1974年にペイパー・レース(Paper Lace)が歌ってヒットした『悲しみのヒーロ』(Billy Don't Be A Hero)や『ザ・ナイト・シカゴ・ダイド』(The Night Chicago Died)の作者でもあります。 


当時はイギリスはクリームやジェスロ・タル, ピンク・フロイドのような日本でアート・ロックと称されたバンドが活躍しており, その対極にエジソン・ライトハウス(『恋のほのお』)やフライング・マシーン(『笑ってローズマリーちゃん』)のようなバブルガム・ミュージックがありました。 この曲もその一つとみなすことができます。 驚異的にもアメリカで流行ったのはアメリカがバブルガム・ミュージックの本場であったのと関係があるでしょう。 しかしやがてバブルガム・ミュージックの風船が弾けるとバニティ・フェアの人気も急速にしぼんで行ってしまいました。  『しあわせの朝』『夜明けのヒッチハイク』のヒットでアメリカ進出を試みた彼らの夢はバブルガムの崩壊とともにしぼんで行きました。