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z30    Um um um  (Major Lance)
 恋のウム・ウム  (メイジャー・ランス)
1964
vs
 I Love You  (The Zombies)
 好きさ好きさ好きさ  (ゾンビーズ)
1965
恋のウム・ウム     原詞・訳詞     
私は,かつて本気でハンドル・コントローラを買おうと思うほどカー・シミュレーション・ゲームにハマっていたことがあります。 その中でも,シカゴの街の中を自由に走ることのできるマイクロソフトの『ミッド・タウン・マッドネス』はお気に入りの一つでした。


"L"と言われる高架鉄道のガード下をくぐったり,飛行機の発着するオヘア空港の滑走路を走ったり, シカゴ川を渡る跳ね橋を踏み台にジャンプしたり, ミシガン湖にダイブしたり, メチャクチャな走りでシカゴの街を自由にクルージングすることができるソフトでした。 もちろんそんなマネをすると後ろからパトカーのサイレンが聞こえてきます。 そうなると始まるのがパトカーとの信号無視・高速道路逆走のカーチェース。。。


そのソフトを大学に合格した生徒に貸したまま4年の月日が経っています。 
そういえば警察官採用試験のため授業を受けに来ていた社会人, 今は9月も下旬なのに何の連絡もないまま来なくなり, 5月分の授業料未納のまま。


いや,話はパソゲーでもなく, いつも適当にあしらわれる不幸な私の存在でもなく, シカゴのことです。


          


シカゴ。 現在,黒人(アフリカン・アメリカン)がその290万人の住民の36.8%を占めている, シカゴ・ブルース, シカゴ・ソウルの故郷。 


しかしシカゴに多数の黒人が住むようになってから100年と経っていません。 南北戦争(1861年〜1865年)が終わって50年たった1910年代でさえ, アメリカの黒人の90%はミシシッピー州など南部に住み, 主に綿花のプランテーションで働いていたのです。
彼らが大量にシカゴをはじめ北部の大都市に移動してきたのは1910年から1940年代にかけてで,これをアメリカ史では「民族大移動」と呼んでいます。


          


1941年4月4日ミシシッピ州ウィンターヴィル生まれたメイジャー・ランスも,「民族大移動」でシカゴに移り住んだ一人でした。 彼の一家は最初ウエストサイドに住んでいましたが, やがてシカゴ中心部の北側に建設されたばかりのカブリーニ・グリーンの集合住宅(カブリーニ・グリーン・プロジェクト)に引っ越します。 





貧しい家庭環境で育ったランスはやがて, カブリーニ・グリーンの西, シカゴ川を挟んだところにあるウエルズ高校に通う高校生になります。  彼は勉強はあまりせずに, ドラッグストアでバイトをし, ボクシング・ジムで汗を流す日々を送りました。 ちょうどジョニー・ソマーズがロサンジェルス近郊, ビバリーヒルズにも近いリゾート地ベニスのベニス高校の音楽部で歌っていた頃です。


          


高校時代の友人がその人の一生を決めるということがあるとすれば, ランスの場合はまさにそれでした。 
ランスの親友に,同じカブリーニ・グリーンに住みウエルズ高校に通っていたカーティス・メイフィールド(1942年6月3日生まれ)とジェリー・バトラー(1939年12月8日生まれ)がいます。 彼らは他の二人の黒人ボーカル・グループ,インプレッションズを結成し,1958年,ティーン・エイジャでありながら For Your Precious Love をいう曲を全米ヒットさせていました(ビルボード最高11位)。
彼らに触発されたのか,ボクシング・ジムの仲間で, 後に自身もレコード・デビューするオーティス・リービル(1943年2月8日生まれ)と組んで, 女の子二人を加えた4人で the Floats というグループを結成します。


the Floats 自体はレコードを出すには至りませんでしたが,地元のラジオ局の番組に出演したときにランスがダンスを披露したところ, これが受けてDJからマーキュリーレコードを紹介されるという幸運に恵まれます。
そして1959年カーティス・メイフィールド作曲・プロデュースで I Got A Girl をリリースしますがこれは不発に終わります。


          


一度乗りかけた船, ランスは仕事をしながら次にレコードを出す機会を虎視眈々と狙います。 運良く彼にはカーティス・メイフィールドが後ろ盾をしてくれました。 彼の伝でメイジャー・ランスは1962年オーケー・レコードと契約し Delilah を発表します。 これは売れたとは言えませんでしたが, オーケー・レコード社長のカール・デイビズ自らのプロデュース, カーティス・メイフィールド作曲, ジョニー・ピート編曲のこの曲はラテンの色合いを持つ独特の作品で, 今後ランスが進む路線の方向付けをしました。 彼らはギラギラ激しいデトロイトやメンフィスのR&Bとは違う,シカゴ・ソウルの源流となるムーディなソウル・ミュージックを作ろうとしていたのです。 


1963年, 再びメイフィールド, デイビス, ピートのトリオによる The Monkey Time (RealAudio)が8位まで昇る大ヒット。 そして1964年のUm Um Um Um Um Um(1964)は第4位まで達し, 一躍ランスはスターになります。 
しかしこの時期がランスの最盛期でした。


          


1965年まずアレンジャのピートがオーケー・レコードを離れABCレコードに移籍します。 カーティス・メイフィールドは古巣のインプレションズの仕事で忙しくなり, ランスの元を離れます。それでもオーケー・レコードの社長カール・デイビズがバックアップしてそれなりの成果は収めましたが, そのデイビスもオーケー・レコードの親会社エピックと折り合いが悪くなりオーケーレコードを辞めてしまいます。


ランスの成功は幸運な,人の出会いの上にあったように思えます。 後にそれぞれ歌手となってアメリカR&B史に名を残す,カーティス・メイフィールド,ジェリー・バトラー, オーティス・リービルといった高校時代の仲間, オーケー・レコードの社長とアレンジャー, 彼らの出会いと支えがランスをスターにしたと言ってもいいでしょう。 彼らがランスの元を離れていくと,ランスの人生は錐揉み状態の飛行機のようにコントロールを失い落下して行きます。


          


ランスは新たにビリー・シェリルと仕事をしますが1968年 It's the Beat がマイナーヒットしただけでオーケーを去りダカール・レコードに移籍。
ここでもヒットが出ず1970年カーティス・メイフィールドの作ったカートム・レコードに移籍。さらにヴォルト, コロンビア,オシリスなどレーベルを転々とします。


その後, 1972年から74年までイギリスで暮らし, 帰国後アトランタに住まいを移しプレイボーイから Um Um Um のディスコバージョンを発表するなど目まぐるしく動き回りますが, 最後に行きついた先はコカインの密売でした。 これで4年の禁固刑を受け音楽界から姿を消します。 1980年代になって刑期終了後音楽活動再開しますが,1987年 コカインの使用が原因となって悪化していた心臓病によって活動休止。1994年6月の シカコ・ブルース・フェスティバルに出演したものの, 同年9月3日心不全で死去。 享年53歳でした。


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