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| z24 | Jambalaya (Hank Williams/Carpenters) ジャンバラヤ (ハンク・ウィリアムズ/カーペンターズ) |
1952 1973 |
| 30秒試聴(ハンク・ウィリアムズjr) (カーペンターズ) 原詞・訳詞 | ||
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| ■アカディア人の歴史 ケイジャンの歴史 ケイジャン音楽 『ジャンバラヤ』の詞の語注 | ||
| ハンク・ウィリアムズ (1923〜1953)が若くしてこの世を去る1年前の1952年に作ったスタンダード化されたカントリー曲です。 詞で使われている言葉も素材もアメリカ南部ルイジアナ州ケイジャン地方の匂いを漂わせる独特の歌でもあります。 ケイジャンは, ルイジアナ州南部に定住したカナダのアカディア(現在のノバ・スコシア)出身のフランス人のことです。 ノバ・スコシアはカーリー・サイモンの『うつろな愛』の歌詞中で「彼氏」が皆既日食をみるために自家用機で向かった地でもあります。 ![]() タイトルの『ジャンバラヤ』が郷土料理の名前であることは知られていますが, これを生んだケイジャン地方の歴史や文化については一般的ではないと思われるので,ここで少し記しておこうと思います。 ケイジャンの歴史をたどるために, まずアカディアの歴史に触れておかなければなりません。 自分のルーツ探しが好きなアメリカ人ですので, ウェッブ上にはたくさんの家系探求の手助けになる文献が浮かんでいます。 今回のアカディアとケイジャンの歴史についても複数のサイトが存在しますが, 一番読みやすく詳しいものとして推薦したいのが Acadian-Cajun Genealogy and History です。 以下のアカデイア人とケイジャンの歴史についての記述の一部はこのサイトを参考にしています。 アカディア人は歴史の浅い「民族」です。 17世紀の初めフランス南西部ブルゴーニュ, ロワール地方から現在のカナダのノバスコシアに移住したフランス人がその土地を Acadie と呼び, 自らを Acadien と呼んだことに由来します。 これは17世紀後半に南アフリカに移住したオランダ人が世代を経てボーア人とかアフリカーナと呼ばれる白人系集団になったのと似ていますが, 彼らは南アフリカ共和国という故国があるのに対し, アカディア人は「故国」を失ったことが異なります。 【アカディアへの入植】 アカディアに定住者が現れたのは 1604年, フランスのピエール・デュ・ガ・デゥ・モン(Pierre Du Gua[Gast/Guast] de Monts)という貿易商が, アンリ四世よりカナダ産の毛皮の独占売買権をもらい, 数10名の商人らとサン・クロワ島に入植地を作ったことに遡ります。 これは清教徒たちを乗せたメイフラワー号がアメリカ・プリマスに到着する16年前のことです。 しかし厳しい自然と英仏間の領有権争いのため定住は進まず, 安定して入植者が増え出したのはフランスの統治を認める条約が締結された1630年代以降でした。 人口調査によると1640年には約200人, 1680年には800人ほどが暮らしていたようです。 【大国に翻弄される悲劇】 アカディアの悲劇は, 英仏間の政治的緊張にあります。 1689年のファルツ継承戦争以降, 世界各地で植民地を巡る争いが頻繁に起こり, アカディアも例外なくその争いに巻き込まれます。 そして 1710年アカディアはイギリス領になり名前も現在のノバ・スコシアになります。 しかし1740年のオーストリア継承戦争が勃発すると再びフランスはアカディア奪回を目論みフランス領カナダから軍を送ってきます。 アカディア(ノバ・スコシア)のフランス人たちはイギリスへの忠誠を誓いますが, 1750年にノバ・スコシア知事に就任したチャールズ・ローレンス(Charles Lawrence) はアカディア人を疎ましく思い, 彼らをノバ・スコシアから追放する命令を下します。 1755年7月28日のことでした。 カナダ南部の地名でセント・ローレンス湾, セント・ローレンス川がありますが, これらとこの知事は関係ありません。 これらはフランスの航海士ジャック・カルティエが聖ローレンスの日である1535年8月10日にこの地域に入ってきたことに由来します。 【故郷を追放された流浪の民】 ローレンス知事のアカディア人追放令により, 6,000人のアカディア人はケベック, プリンセス・エドワード島, アメリカ東部各植民地, イギリス, フランス, 西インド諸島, フランス領ギアナ, さらに遠くイギリス領フォークランド諸島まで船に乗せられ各地に流されます。 いわば「罪なき民を護送船で見知らぬ土地へ送る流刑」とも言える行為ですが, 彼らを救う者はだれもいませんでした。 祖国フランスでさえ彼らを冷遇します。 最初不干渉を決め付けなすがままにしておきますが, それがうまく行かないことがわかると, やせた土地を与えられるか他のフランス領の海外領土への移住するかの選択をさせます。 どこでも厄介者扱いであったアカディア人は, 次から次へと居場所をたらい回しにさせられた感があります。 例えばアメリカのヴァージニア州は彼らの上陸を拒否。 港の沖合いに定員オーバーの船を数ヶ月間停泊させたあげく, 護送船の目的地を急遽イギリスに変更させます。 この間に多数の者が衰弱死, さらにイギリスに着いてからも天然痘で数10名が死亡します。 また, ある土地に移り住んだアカディア人も1つの所に居を構えず, より良い環境を求めて移動していたことも多かったようです。 しかしそれは必ずしも成功しませんでした。 例えばカリブ海のサンドミンゴ(現ハイチ)に移民したアカディア人の場合, サンドミンゴに軍港を建設するため労働力を必要としていたフランスがハンソンという手配しにニュー・ヨーク州にいるアカディア人を招集するよう依頼したことから端を発します。 ハンソンは自立できるまで物資と土地は与えるといううまい話をもちかけて400人余りのアカディア人を集めます。 この男, サンドミンゴ政府から船賃の補償をもらっているのにかかわらず, アカディア人に高額な船賃を要求したとんでもない人間のようです。 サンドミンゴでの彼らの暮らしは悲惨でした。 わずかな配給品と土地, テントと引き換えに, ジャングルを切り開き港湾建設に従事しますが, フランスから送られる食べ物はわずかで, 栄養不足と熱帯性の病気のために死ぬ者も出ます。 フランスは配給品の量はそのまま, さらにアカディア人を島に送るため事態は悪化, 1764年に島にいたアカディア人938人は, 1年後には677人に減ったと記録されています。 ■ アカディア人の歴史 ケイジャンの歴史 ケイジャン音楽 『ジャンバラヤ』の詞の語注 |
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