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z23   Dance With Me     (Orleans) 
 ダンス・ウィズ・ミー  (オーリアンズ)          
1975
 Dancing In The Moonlight  (King Harvest)
  ダンシング・イン・ザ・ムーンライト  (キング・ハーベスト)
1973
ダンス・ウィズ・ミー     原詞・訳詞  
ダンシング・イン・ザ・ムーンライト   原詞・訳詞
アメリカ南部ルイジアナ州の New Orleans はカタカナ表記ですと『ニュー・オーリーンズ』 実際の発音は3通りあるようです。
 
ではこのバンドはどう発音したらいいのでしょう。
New Orleans の New を取ってしまえば3通り発音があるということになってしまいます。
さらにややこしいことに, フランスの都市 Oreláns はフランス語風にまた別の発音をします。 (New Orleans はルイ15世の摂政だったルイ・フィリップ・ジュゼフ・オルレアン公 Duc d'Orleans にちなんで名付けられた。)



さてこのようにニュー・オーリーンズの発音などにこだわったところから考えて, バンドのオーリアンズはニュー・オーリーンズ出身と思うでしょう。 
が,正解はニュー・ヨーク州北部。
ではなぜオーリアンズと名乗ったかと言えば, 彼らが最初 R&B とケージャンのミックスされた音楽を追求していたからなのです。
ケージャンについてはジャンバラヤの項をご覧下さい。


オーリアンズのオリジナル・メンバーはジョン・ホール, ラリー・ホッペン, ランス・ホッペン, ウエルズ・ケリーの4人です。
彼らは, 幼いころからいろいろな楽器に親しみ, 10代にロックにめざめ数々のバンドを出入りして, 大学は音楽への未練が捨てられずドロップアウト ―― というお決まりのコースを経ます。


1972年に結成されその1年後の1973年にはABCレコードからデビュー・アルバム Orleans を出します(そのジャケットはシカゴのパロディを思わせちょっと情けない。。 http://www.orleansonline.com/orleans/albums/abc.html )
これは特に話題になることもなく, もう1枚ABCから出る予定もお蔵入りしてABCレコードをクビ。


しかし1975年アサイラムと契約, ここで『ダンス・ウィズ・ミー』 がヒット。 翌年も『スティル・ザ・ワン』(皮肉にもABCテレビによって局のテーマ曲として採用されます)がヒットし, オリジナル・メンバーの補強をし, ツアーの日々が始まります。


1977年ジョン・ホールが脱退, ソロ活動を始めます。 彼は反原子力発電所運動のスポークスマン的存在になり, MUSE (Musicians United for Safe Energy)という団体を作ったり, 1979年ジャクソン・ブラウンやグラハム・ナッシュらとともにマジソン・スクエア・ガーデンで No Nuke (”原子力発電所はノー”)コンサートを開きます。


一方, オーリアンズの方はメンバーの入れ替えを幾度かしてツアー活動を続けますが, そんな中1984年オリジナル・メンバーでドラム担当のウエル・ケリーがロンドンでミートローフとのツアー中にヘロインの過度の使用が原因で急死します。 


これがもとでジョン・ホールはオーリアンズに復帰。 1986年に彼とホッペン兄弟の3人によるアルバム Grown Up Children をリリースします。
それまでは長髪でヒッピー崩れ風の姿の写真がアルバムに見えたのですが, このアルバムでは普通の人のようにこぎれいにして3人が佇んでいます。http://www.orleansonline.com/orleans/albums/grownup.html
なんとなく疲れてしまったような, 終わってしまったような感じに見えるのです。
これでおしまい?
いや, 彼らを再び蘇らせる転機が訪れます。
それは日本公演でした。


彼らのホームページにはビデオ・クリップをたくさん用意してあります。
その中に1991年の日本ツアーのビデオもあるのですがこれは他のビデオクリップより長く4分ほどサービスしてくれます。
http://www.orleansonline.com/video/video1.html
恐らく『ダンス・ウィズ・ミー』がCMソングになったせいでしょう, 日本での彼らの認知度は高く, 東京, 大阪, 名古屋での日本ツアーは大成功を収めアメリカのマスコミも注目, 彼らのライブは日本でレコード化されオーリアンズは息を吹き返します。


1997年に今度はラリー・ホッペンがソロ・アルバムを出しますがそれでも彼ら3人は結成30年を越えた現在も共に活動しています。


            


詞について。


フィフス・ディメンションの『ビートでジャンプ』を思い出させる, 夜空に舞って行くファンタスティックな詞で, ともにCMに採用されただあって気持の良い歌詞であると思います。 


英語の音の面から考察すると, 3音節の Dance with me, Can't you see,   Fantasy,  I'm free は[i:] で韻を踏み, またこの下線部は1拍半と長くして, これに続く早口で歌う7音節の語句と対照的にして緩急をつけ, いかにもダンス曲であるようにしています。 
『ラスト・ダンスは私と』などタイトルに『ダンス』とあるのは, やはりダンス曲だなと思わせますよね。


ところで, この歌もインターネットの歌詞サイトでは歌詞の一部が異なるものの1つです。
すなわち 第2連のはじめ Fantasy could never be so thrilling. が Fantasy could never be so giving となっているものがほとんどで, 次いで Fantazy could never be so killing となっているのが続き,  thrilling はむしろ少数派です。


しかし聞いてみると thrilling が正解ではないかと思います。 第一 giving や killing では意味をなさないし, giving に至っては韻も踏んでいません。
毎度言う, コピペで歌詞が増殖するために, 下手すると間違った歌詞の方が多数派になってしまう, そんな例の1つではないかと思います。


            


【ダンシング・イン・ザ・ムーンライト/キング・ハーベスト】


私の頭の中では, この『ダンス・ウィズ・ミー』がキング・ハーベストの1973年のヒット曲『ダンシング・イン・ザ・ムーンライト』と結びついてしまうです。


ともに「夜空」と「ダンス」がテーマである上, 曲想的にも似た感じがしてならないのです。
そんな私にとって今回は大発見がありました。
オーリアンズを調べたら, この2曲がいわば遠い親戚関係にあることがわかったのです。


話は1960年代末に遡ります。 オーリアンズのメンバーの一人ウエル・ケリーは, 兄(弟)のシャーマン・ケリーや同じイサカ大学の学生だったラリー・ホッペンとともに Boffalongo というバンドのメンバーになります。 彼らはシャーマンの作った『ダンシング・イン・ザ・ムーンライト』をユナイテッド・アーチストからレコーディングして発売します。 やがてラリーとウエルは Boffalongo を抜けますが, このバンドのメンバーからキング・バーベストが結成され, 1973年『ダンシング・イン・ザ・ムーンライト』を再レコーディグ, これがビルボード年間ランキング38位のヒットとなります。


『ダンス・ウィズ・ミー』はジョン・ホール作曲, 当時の奥さんのジョアンナ・ホール作詞の作品です。 そのインスピレーションを『ダンシング・イン・ザ・ムーンライト』から得たかは不明です。
ウエルとラリーのいた(キング・ハーベストの前身の) Boffalongo はひょっとしてオーリアンズと似た音楽を追求していたとしたら感じが似てしまうのも当然と言う気がします。
私がこの2曲が結びついたのはケージャン音楽が原点にあるからなのではと思うのです。 少なくともケージャン音楽の重要な要素である「ダンス」は詞の中に見事に現れていますから。



(以下は当コンテンツの63番 『ダンシング・イン・ザ・ムーンライト』をそのままコピーしたものです。)
「収穫の王様」と名乗るこの一発屋のバンドの曲, 知っている人はあまりいないでしょう。 一発屋のヒット曲の中でもビッグ・ヒットとなったわけではありません。 でもCMのバックに使ってもよいようなキラリと光る小品といった趣のある曲で, 今聞いてもそんなに古さを感じさせません。 


この曲で印象的なのはキラキラ輝く月明かりを連想させる電子ピアノ(Wurlitzer)の舞うようなアレンジと途中のコード進行(Eb Bb D Cm)の部分ではないでしょうか。  これらはこの歌に優しいほんわかした感じを持たせて歌詞のテーマにピッタリあっています。


人々が平和に暮らしているユートピアを歌った歌詞は, 70年代初めのまだヒッピー文化が残っている時代らしさを感じさせます。 


リードボーカルの妙に鼻にかかった声(私はドゥービー・ブラザーズのボーカルのそれを連想してしまう)は, いかにもアメリカの素朴な田舎の男という感じがして, これがまたこの曲の醸し出す雰囲気に合っていると思います。