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z13    When A Man Loves A Woman   (Percy Sledge)
 男が女を愛する時    (パーシー・スレッジ)   
1966
vs
 It's Man's Man's World  (James Brown)
 マンズ・マンズ・ワールド  (ジェームズ・ブラウン)
1966
男が女を愛する時    原詞・訳詞     
イッツ・マンズ・マンズ・ワールド   原詞・訳詞
両方とも女に対する男を意識した歌詞を持つ1966年のソウルの古典的作品。 
対決させるにはいい組み合わせだと思います。


『男が女を愛する時』。 この歌はまずタイトルがいいですね。 
そしてイントロの厳粛で静かなオルガンからいきなり When a man loves a woman とサビに入るような出だしがかっこいい。 あとはバラードというのはこういうのを言いますという感じで進行して行きます。 
この歌が好きな男性は多いようです。 歌には男受けするのと女受けするのがありますが, この歌は女より男の感性に訴える曲と言えるでしょう。 


パーシー・スレッジの切々と歌うバラードに「男はこう女を愛すべきだと歌っているのだろう」と自分なりの恋愛観を思いながら, 酔いしれる。。 時に女性を脇に置いたりして。
さてこの歌の主人公の恋愛観はどうでしょうか。 


【パーシー・スレッジのバイオ 】

パーシー・スレッジは1941年アラバマ州レイトンに生まれます。 ここで農業を営んでいましたがシェッフィールドにあるコルバード郡病院の用務員になったのが彼の運命を変えます。 病院で働きながら週末はツアーをして歌っていたのですがその病院の患者の中に地元シェッフィールドで1965年に Norala Recording Corporation を設立したレコード・プロデューサ, クイン・アイビー(Quin Ivy) と知り合いの者がいて, その紹介でオーディションを受け見事合格となるのです。 



クイン・アイビーはギタリスト, マーリン・グリーン(Marlin Greene) とともに『男が女を愛する時』をプロデュース, このパーシー・スレッジにとっての初レコードは世界的なヒットとなり, これを配給したアトランティック・レコードにとって初のミリオン・セラーとなります。
それ以降もパーシー・スレッジはアイビ―・クインと組んでレコードを出しますが, イマイチ。 ワン・ヒット・ワンダラーとして『男が女を愛する時』を生涯歌い続ける星の下に生まれた彼は60代になった今も各地でツアーをしています。


         


さてもう一方のジェームズ・ブラウン, 先日(現在2003年11月初め)来日しましたが, ちらっとテレビで見たその姿は私が30年以上前見たと姿(こちらもテレビでですが)と全く同じで驚きました。 よく芸能人は化け物だと言いますが本当にその通りと思いました。 


オーケストラをバックにジェームス・ブラウンはシャウトしながら切々と歌うこちらの歌詞は「男が車を作り, 船を作り, 金を作り。。」という具合に田嶋陽子先生が知ったら目くじら立てるような語句が並びますが(私にはひょっこりひょうたん島に現れた貴族のドビンポット夫人が歌った『ゴルフ 水泳 テニスにピンポン 暇にあかせて金つぎ込んで みんな貴族が考えて 作ってあげたお遊びよ みなさん そうざましょ ええ そうざます』という歌を思い出させます)
「男がなんでも作った世界でも女がいないとやっぱなあ〜」というのがこの歌のオチ。  


             


【ジェームス・ブラウンのバイオ 】
ジェームス・ブラウンは1933年サウス・キャロライナのガソリン・スタンド従業員の一人っ子として生まれます。 4歳で両親が離婚。 ジョージア州アトランタの叔母に引き取られますが彼女は貧しく彼は日本で言う中学1年生で学校をやめ綿花の摘み取り, 靴磨き,清掃員などをします。


16歳のとき凶器を持って強盗を行い逮捕され少年院へ。  出所後, ボクサーや野球選手になり夢を追いますが足をケガして挫折。 そんなとき刑務所(短期間刑務所にもいたことがある)の野球チームで知り合ったピアニストのボビー・バードのバーで働きます。


 本格的に音楽を始めたのはリトル・リチャードのマネージャに見出され別のクラブ・ハウスでドラマー兼オルガン奏者として働いたとき。 さらにボビー・ハートのゴスペル・グループに属し歌も歌うようになります。 1956年フェイマス・フレイムズ(the Famous Flames)というR&Bバンドのボーカルとして加入, このバンドは同年にキング・レコードからPlease, Please, Pleaseシングルを出しトップ・テン入りします。


やがてジェームス・ブラウンはバンドに属しながらソロ歌手としても注目を集めるようになり1958年に Try Me がR&Bチャートで第1位に, そして1962年にニュー・ヨークのアポロ・シアターに出演します。 以降の現在までミスター・ダイナマイト, ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン, ゴッドファーザ・オブ・ソウルなどのニックネームを持つR&B界の大御所として活躍しています。