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58   Purple Haze    (Jim Hendrix Experience)
紫のけむり (ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス)
1969
     原詞・訳詞  
1960年代末はLSDによる幻覚を連想させる絵画や音楽が存在しました。 この曲もアシッド・ロックらしい意味深な内容の詞を持っていますが, 作者の天才黒人ギタリスト, ジミ・ヘンドリックスは実際に過度なドラッグが原因で, 嘔吐物が喉に詰まり1970年9月27歳の若さで急死してします。
なお同じ1970年10月にはジャニス・ジョプリンが1974年4月にはドアーズのジム・モリソンがドラッグが元で若くして他界しています。


ではここでジミ・ヘンドリックスのプロデビューまでを追ってみることにしましょう。
ジミ・ヘンドリックスの父親アル・ヘンドリックス(カナダ・バンクーバ出身)は旅回りのボードビリアンでしたが1940年20歳のときアメリカ・ワシントン州のシアトルに定住し, 翌年に同じ旅回りの芸人ルシル・ジーターと出逢い,1942年3月結婚します。
そして同じ年1942年11月27日, アルがジョージア州に兵役していいたとき, ジミが生まれます。
大戦後, アルが帰郷してからアルコール中毒になっていた妻との間でケンカが絶えなくなります。 1948年次男のレオンが 1949年には三男のジョセフが, 1950年年には長女のキャシー・イラが生まれますが, 夫婦仲は悪く, ついに1952年ジミが10歳のときに正式に離婚, 弟とともに父親に引き取られます。


1958年, ルシルは他界しますが, アルも息子達も葬儀には出ませんでした。 
ボードビリアンだった父親は息子に夢を託したのでしょう, この年18歳になったジミにウクレレをあげます。 それがきっかけでジミは年末に5ドルのアコースティック・ギターを買います。 さらに翌年には今度はアルがエレキ・ギターを買い与えます。 すでにこのときにジミは地元のバンドのメンバーとなっていました。
1960年高校を中退, 翌年に空軍のパラシュート部隊に入隊しますが,足首をケガして1962年には退役します。


1962年11月20歳になって,空軍時代の友人とテネシー州ナッシュビルで音楽活動を開始するのをきっかけに, アイズレー・ブラザーズやサム・クック, リトル・リチャードなどとの旅公演のバック・ミュージシャンを経験, 数々のバンドに加わる下積み生活が始まります。


大きな転機は1966年6月23日(23歳)に訪れます。
ローリング・ストーンズのキース・リチャードの恋人リンダ・キースがジミの演奏を見て関心を持ちストーンズのマネージャを呼びます。 彼は興味を示さしませんでしたが, リンダはあきらめず今度はアニマルズのベイシスト,チャス・チャンドラーに引き合わせます。 チャスはジミが気に入り, 9月にジミはイギリスへ渡ることになります。 そして9月29日にはベイシスト,ノエル・レディングと10月5日にはドラマー, ミッチ・ミッチェルと出逢い,ジミ・ヘンドリックス・エキスペリエンスが結成されるのです。 


以降はトントン拍子に進んでいきます。
10月13日には初めての公演をフランスのパリ郊外で行い, 10月23日には初シングル『ヘイ・ジョー』をレコーディング, 11月2日には初LPのレコーディングを開始。12月にはテレビに, 翌年1月にはBBCラジオにも出演します。
そして1967年2月3日に2枚目のシングル『紫のけむり』をレコーディング。
3月には当時のアイドル・グループ, ウォーカー・ブラザーズとツアーをします。
6月のアメリカのモンタレー・ミュージック・フェスティバルに出演。 そして7月には今度はあのモンキーズとツアーをします。


1966年はジミヘンの人生のターニング・ポイントだったのですが, 父親アルにとっても同じでした。 彼は46歳で, 日本人フジタ・ジューン・アヤコと再婚, ジミにとっては義理の妹になるジャニーが生まれます。 


そしてこのジャニーが今年(2003年)2月,アメリカのマスコミに登場しました。
現在残されたヘンドリックス家の二人(彼女とレオン)の一人として, 義理の兄を,2002年4月に他界した彼の父アルと義母アヤコ(1999年他界)とともに眠るように,ジミヘンの遺骨を前の墓所から移動させたという話題を提供したのです。
新しい墓地は30フィートの高さの御影石のドームで, やがては実物大のイタリア製のブロンズ像も飾られるそうです。


もしジミヘンが生きていたら還暦を迎えてどんな音楽を奏でていたのでしょうか。