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| 156 | Johny Angel (Shelly Fabares) ジョニー・エンジェル (シェリー・フェブレー/ファブレィ) |
1962 |
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| あの〜自慢しているわけではないのですけれど, ある日, ハッピー・トゥゲザの項で書きましたマスコミで活躍なさっているある方から暑中見舞いをいただきまして, そこに http://www.youtube.com/watch?v=4m6eYyNxuHs というアドレスがありました。 開けてみるとモノクロのテレビ画面に映る品のよい女の子が歌っている姿。 そのマスコミ関係の方のメールによると小学校低学年にしてこのような女優さんを知っていたのだそうで, 私は正直驚きました。 私とその方は同学年なのでありますが, 私の方は1962年ごろはあちらの映画とテレビドラマの区別もつかず映画はせいぜいディズニーの『101匹わんちゃん大行進』のような類しか見たことなく, 『名犬ラッシー』のドラマの朝食に出てくるコーンフレークとオレンジジュースに憧れを持っていて, よく少年が「もういらない」とか言って食べ残して席を立つたびに何て子だと憤慨し, 私の飲兵衛の父親が食べ残したポテトチップスに牛乳と砂糖をかければコーンフレークになると信じそれを実践していたような子供で, あちらの女優サンなど興味もなかったのです。 洋楽もフジテレビのヒットパレードで中尾ミエさんが歌った『バイバイ・バーディ』に満足しているくらいで, それをオリジナルでは誰が歌っているかなど関心もなかったですから(私と同学年のその方はアン・マーグレット盤で口ずさんでいたとか), 同じ学年にして, 片方が帆船で新世界に航海していくスペインで, 片方が貨幣経済も成立していなかったインカ帝国のような, 同時代にいながら文明が違うみたいな状況であったことを思い知りちょっとショックを受けました。 という長い前置きのあと, 今更ながら『ジョニー・エンジェル』の周囲を調べここに発表するのであります。 参考ページ http://www.donnareedshow.com/articles/johnny.html http://www.donnareedshow.com/articles/shel16.html 『16』誌の記事 http://www.donnareedshow.com/articles/shelteen.html 『Teen』誌の記事 http://en.wikipedia.org/wiki/Shelley_Fabares その他 1944年1月19日生まれの女優 Shelley Fabares (イメージ検索)の苗字は正式には[ファブレィ]と読む珍名さん。 調べた限りでは Fabares は Favares とも綴り, フランスとスペインの国境のピレネー山脈にルーツのある苗字のようです。 フランス語読みなら語尾の子音を発音しませんし, スペイン語読みなら b と v の区別がありませんのでピレネー山脈がルーツというのは正しいように思えます。 なお叔母さんのタレントのナネット・フェブレー/ファブレィは Nanette Fabry と綴っています。 『ジョニー・エンジェル』は1958年から1966年までアメリカABCから放送された The Donna Reed Show という小児科医一家ストーンズ家を巡るドラマの劇中歌です。 それが上記の動画と思われます。 歌っているのがもちろんシェリー・フェブレーでときどき心配そうな顔で彼女を見つめているのがドナ・リードでしょう。 なおバックコーラスが白人になっていますが, 実際は下記にも触れますが伝説のバックアップシンガー, ダーレン・ラブとザ・ブロッサムズ(3人組のアフリカ系アメリカ人)です。 ドナ・リードの当時の旦那トニー・オーウェンがこの番組のプロデューサをしておりコロンビア・ピクチャーズのレコード部門コルピックス(Colpix : Columbia と映画の Pix の合成)とタイアップしてドラマの中で歌を折り込むことを計画します。 娘のメアリ役のシェリー・フェブレィと息子のジェフ役のポール・ピータセンに歌わせることにしました。 しかしシェリーは尻込みします。 ポール・ピーターセンの方も1962年に My Dad という曲がヒットしています。 「それはすてきだと思うけど私は歌手じゃないから歌えないと思う― と断固拒否したわ。 でも「いいえ」って言わないように育てられた良い子だったからできませんって言うのに苦労したの。」 結局, トニーは作曲家のストゥ・フィリップスに二人のデモテープを作らせることにシェリーはこれに従います。 ストュのシェリーへ印象: 「言葉遣いが柔らかく品格があったね。 出たがりでスポットライトを浴びようとするタイプの子ではなかった。」 デモテープを聞いたトニーは計画通りに二人を歌手にすることに決定。 ストゥは長い間暖めていた『ジョニー・エンジェル』(リー・ポックリスとリン・ダディの作品)を選曲します。 リー・ポックリス はポール・ヴァンスと組んで『ビキニスタイルのお嬢さん』(Itsy, Bitsy, Teenie, Weenie Yellow Polka Dot Bikini)を作詞/作曲した人。 リン・ダディはエド・サリバン・ショウやマーブ・グリフィン・ショウなどのライターであり多くのテレビ・シリーズの作曲をした人です。 いよいよ録音となってシェリーは音楽のプロたちの姿に圧倒されびびってしまいます。 スタジオにはグレン・キャンベル(恋はフェニックス, ガルベストン, ウイチタ・ラインマンなどのヒットがある歌手。 当時はギター担当のスタジオ・ミュージシャン)やドラマーのハル・ブレインがおり, バックコーラスはダーレン・ラブ率いるザ・ブロッサムズが担当。 「録音している時, 私は何しているのかしらと思っていたの。 まるで通りを歩いた子供が突然呼ばれて大きなレコード会社のためにレコード吹きこみなさいって言われたみたい。 他の10代の女の子も同じように感じると思う。」 そんなシェリーをブロッサムズは励まし, またストゥも支えます。 「フィリップスさんには不思議な力があって, 私はだんだん落ちついてきたわ。 そして突然私たちすごいことができるかもしれないって思ったの。 不安も心配も克服して自分のしていることが楽しくなり始めたわ。」 こうして無事レコーディングを終えてもシェリーは自分の力に疑心暗鬼です。 しかし蓋を開ければ1962年4月7日にビルボード誌でナンバー・ワンになる大ヒット曲に。 それでも相変わらずシェリーは思います。: 「ヒットするなんて思わなかった。 お父さんとお母さん以外は買わないと思った。 今でも私は歌えると思っていません。」 その後, LPを1枚, シングル Johnny Loves Me を出しますが, The Donna Reed Show は1963年にやめ, 映画女優としてエルビス・プレスリの Girl Happy (1965), Spinout (1966) Clambake (1967) などに出演しています。 詳しい出演映画は http://www.imdb.com/name/nm0001193/ さて曲がヒットして忙しくなったのか『ジョニー・エンジェル』が流行った年に喉に潰瘍ができて休養を余儀なくされます。 それが当時付き合い始めていたレコード・プロデューサのルー・アドラーとの仲をより深め2年後の1964年20歳のときに彼と結婚します。 ルーはママス&パパス,グラスルーツなどが所属していたダンヒル・レコードの創立者の1人で, この新興レーベルの最初のレコードとして1965年に My Prayer (レコード番号 dunhill 4001)を出します。 アドラーとの夫婦生活は2,3年で終わります。 ただし正式に離婚したのは1980年代になってからのようです。 現在は俳優のマイク・ファレルと結婚, 現役で活躍中ですが2000年に肝炎によって肝臓移植手術をしたそうです。 |
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