本館もくじへ 別館もくじへ 新館もくじへ |
|---|
| 137 | Me And Bobby McGee (Janis Joplin) ミー・アンド・ボビー・マギー (ジャニス・ジョプリン) |
1971 |
| 試聴 原詞・訳詞 | ||
|---|---|---|
ここにあるのは皺だらけの Music Life 1970年3月号。 もちろん表紙は目一杯笑っているジャニス・ジョプリン。 クリックすると拡大します。アルバム『チープ・スリルズ(Cheap Thrills:1968)』やシングル『ジャニスの心(Piece of My Heart:1968)』『トライ(Try:1969)』のヒット曲を出し, 1969年のウッドストックにも出演し, この頃は本国アメリカはもちろん世界中で認知されている絶頂期でした。 その笑顔に自信が伺えます。 しかし, これから1年も経たない1970年10月4日, 2枚目のソロ・アルバムの完成を待たずに他界するとは誰が想像したでしょうか。 1969年7月3日ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズ, 1970年9月18日ジミ・ヘンドリックス, 1971年7月3日ドアーズのジム・モリソン という具合にこの頃は若くして他界したミュージシャンが集中。 全員享年27歳。 死因にドラッグの使用を臭わせているのも怖くて悲しい偶然です。 (ブライアン・ジョーンズとジム・モリソンの命日が同じというのも不思議です。) さて Music Life の 1969年12月号に当時ニッポン放送のプロデューサであった亀淵昭信氏が『ジャニス・ジョプリン ジャニスはロック界のジャンヌ・ダルクになりうるだろうか?』という記事を寄せてこんな一文を書いておられます。 「新しい形のロックンロール,俗にいうニュー・ロックが誕生してはや3年。 (略) 自己をより表現するため, 声の質とか衣装を問題にするより, 歌い手の内部から涌き出る, 肉体を100パーセント使った, 迫力ある, そしてより自然な歌い方がもてはやされるようになった(略)。」 やはり元ニッポン放送社長の方の文章だけあって, そこはかとなく知性が感じられます。 が, さらに文章が続くと 「スパンキー, ママ・キャス, ジャニス・ジョプリンこの3人の共通点, 3人とも美人ではない, つまりブスである。 3人ともデブ, あるいはフトリ過ぎである。 」 まさか今このような言葉を社長の身で発したらマズかったでしょうけど, セクハラなんて言葉のない当時はアハハで済んだのでしょう(きっと)。 ジャニス・ジョプリンは1943年1月19日テキサス州ポート・アーサー生まれ。 幼い頃,級友達から無視される今のイジメの対象になっていたらしいのですが, 両親は彼女に芸術的な才能を見つけ, 絵画や音楽や本に親しむように育てます。 ジャニスが10代のころはアメリカでは黒人の公民権運動が盛んでした。 また過激な自己表現と親共産主義的な思想を持つビートニックと呼ばれる若者による文化が流行っており, 彼女はこれらに賛同, 保守的な南部の町で浮いた存在になります。 音楽に関してもベッシー・スミスやオデッタ, レッドベリーなどのブルースに惹かれ, 白人女性でありながら影響で自分でもコーヒーハウスやフーテナニー(歌声喫茶みたいなもの)でブルースを歌うようになります。 当時のアメリカは若者が故郷を捨ててニューヨークのグリニッジ・ビレッジやロサンジェルスのサンセット・ストリップ, サン・フランシスコのノース・ビーチなどに集まった時代。 ジャニスもそんな若者の一人になります。 ここでまた亀淵昭信氏の先の文章より引用すると 『今でこそ(=1970年), ドロップ・アウト, 学校からでも社会からでも, 既成のワクの中から抜け出ることは, そんなに珍しいことではない。 でもジャニスが17歳の頃, そして閉鎖的なポート・アーサーの町では, 家出少女が出るなんていう大それた事件は前代未聞のことだった。 あっと驚くタメゴロー!!』 この頃なのですね, このフレーズが流行っていたのは。 ジャニスが向かったのはサンフランシスコ。 まだヒッピーなんて言葉が生まれていない頃です。 やがてサイケデリックと呼ばれる幻覚と陶酔を求める芸術形態が持てはやされ, ジェファーソン・エアプレインやグレイトフル・デッドなどが次々とメジャー・デビューして行きます。 1966年, ジャニスはその一つビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーのヴォーカルに迎えられたのでした。 【ミー・アンド・ボビー・マギーについて】 ジャニス・ジョプリンがホールディング・カンパニーから独立して2枚目のアルバム Pearl の収録曲で, オーティス・レディングのドック・オブ・ベイやジム・クロウチのタイム・イン・ア・ボトルと同じく歌い手が死んだ後で発売されたヒットした曲の一つです。 ブルースではなくカントリー・シンガー, クリス・クリストファーソンの作品(1969年)で彼自身も歌っていますが, 最初に歌ったのはロジャー・ミラーというカントリー・シンガー(1970年)で, ジャニスは2番目, クリストファーソンは3番目でした。 Bobby McGee という名はクリス・クリストファーソンの音楽出版社の秘書の Bobbi McKee から来ているそうで, Bobby は男女どちらでも使える名前のようです。 (ふつう Robert の愛称として男が連想されます。) カントリーによくある放浪物がテーマの歌ですが, 歌詞はクリス・クリストファーソン盤とは違うところがあります。 またジャニスの歌でも歌詞サイトによって微妙に異なる部分がありますが, 当サイトでは最も近いのではないかと思われる歌詞を採用しました。 ここで語注を幾つか。 第1連 1行目 Busted flat in Baton Rouge, waitin' for a train busted は「粉々にされた」 flat は「平らな状態になって(倒れるなど)」 busted の前に We were が省略されていて, waitin' の方は分詞構文と見ればよいと思います。 Baton Rouge はルイジアナ州南部の都市で, 1992年10月17日ハロウィーンの日に起きた日本人留学生射殺事件で有名。 第1連 2行目 And I's feelin' near as faded as my jeans I's は I was を崩した発音。 faded は「色あせた」で直訳は「私のジーンズと同じくらい私の気持ちは色あせていた」 ここでは「顔色が悪い, 元気がない, 気持ちが沈んでいる」くらいの意味と思います。 第1連 3行目 Bobby thumbed a diesel down just before it rained thumb down は「ヒッチハイクで親指を立てて車を止める」 diesel は「ディーゼル・トラック」 映画なんかで見るタイヤが10個くらいついているドデカイやつでしょう。 第1連 4行目 It rode us all the way into New Orleans 無生物主語の構文という文法事項。 New Orleans はルイジアナ州最大の都市。 Baton Rouge との距離は150キロくらいで東京〜静岡間ほど。 第2連 1行目 I pulled my harpoon out of my dirty red bandana harpoon は本来「槍」 ここでは harp 「ブルース・ハーモニカ」のことのようです。 これは harp の間違えだという人もいますが, アメリカのハーモニカの教習本の宣伝文に次のように harpoon という文字が見えるので, どうやら正しいようです。 Pull up a chair, pull out a harpoon and let's make some music, 'cause ol' Doc Gindick is going to teach you to beautifully play the American classics. 「イスを引き寄せて harpoon を取り出して音楽をやりましょう。 なぜってドック・ギンディックがあなたにアメリカの古典を美しく演奏する方法を教えてくれるから」 第2連 3行目 Windshield wipers slappin' time, I w's holdin' Bobby's hand in mine windshield は日本語の「フロント・ガラス」 日米英では車の部品の名称が異なることがありややこしい。 詳しくはここをクリック。 I w's は I was の崩れた形。 第3連 1行目 Freedom's just another word for nothin' left to lose 〜 is another word for ... 〜は。。の別の言い方; 〜は。。ということ. 例:"Filch" is another word for stealing; predominently used in Britain. 「Filch は主にイギリスで使う「盗み」の別の言い方。」 nothin' left to lose 「失うために残されているものはないこと」「失うものはないこと」 第5連 1行目 From the Kentucky coal mine to the California sun coal mine 炭田, 炭坑 sun ひなた 第5連 2行目3行目 There Bobby shared the secrets of my soul Through all kinds of weather, through everything we done この2行はつながっていて「あらゆる種類の天気を通して, 私達のしたすべてを通してケンタッキーからカリフォルニアに至るまで, ボビーは私の心の秘密を分かち合った」という感じの意味。 訳の方では2行に分けたため意訳してあります。 we done は we did アメリカの俗語では do の過去形が done になることがあります。 第6連 1行目 One day up near Salinas, Lord, I let him slip away Salinas サンフランシスコの南150キロほどにある人口15万人の都市。 この第6連は現在形が続いています。 どうやらこの歌の男女は旅先で知り合ったらしく, いずれ別れなくてはいけない間柄であることがここでわかります。 自由を求めて気ままな旅をしている二人は, 自由を何よりも大切な物と考えていますが, 人を好きになるといことはその人の自由を束縛することを意味するのを, 主人公はわかっています。 だから I let him slip away という許可を表す使役動詞を使って「彼がいなくなるのを許す」と言っているのです。 第6連 2行目 He's lookin' for that home and I hope he finds it that home 「あの家」が何を意味するのでしょうか。 ボビーの家庭があるかもしれません。 ともかくここで二人は別れなくてはいけないようです。 第6連 3行目 But I'd trade all o' my tomorrows for one single yesterday o' は of 直訳は「(もしできれば)私の複数の明日を1個の昨日と取り替えるだろうに」 「思い出に生きるより, これから先もあなたのそばにいたい」ということでしょう。 第6連 4行目 To be holdin' Bobby's body next to mine 目的の不定詞と見て良いが, 英語の行と日本語の行の位置が一致するように訳そうとしたため結果の不定詞のようになっています。 第7連 2行目 Nothin', that's all that Bobby left me, yeah 「『何もないもの』がボビーが私に残したすべて」 つまりボビーは私に何も残さなかったということ。 この前の行の Freedom's just another word for nothin' left to lose 「自由とは失う物が何も残っていないということ」から考えると, 主人公は今自由になったと言えるでしょう。 では自由を何よりも尊重している主人公なのだからこれで満足なのでしょうか? 相手の自由を束縛したくないからボビーと別れた主人公の選択は正しかったのでしょうか? 歌詞がなくなってから長く続く ラ・ダ・ダ。。 の繰り返しが, 主人公の頭に浮かぶ色々な思いを伝えているような気がします。 |
||